pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

唐突な思い付きとそうでないこと

およそ4か月もの間放置していた。別に誰が見るわけでもなく、そして別に義務として始めたわけではないからかまわないのだけど。

 

今朝は3時半ごろに目が覚めた。1日の平均睡眠時間が4時間を切ってしまいそうなので、8時間は寝ないとしんどかった頃に比べると体力がついたのかもしれない。実際のところ、体力を使うことがないだけなのだが。

 

目が覚めた僕は唐突に散歩したい気持ちに駆られて家を出た。数分で帰ってきた。まだ日も昇ってなかったし、これじゃあ深夜俳諧と変わらないじゃないかと思ってすぐに引き返しただけである。何がしたかったのか、今でもよく分からない。

 

唐突にしたくなったことと言えば、SNSアカウントの消去である。Facebookは早々に切り捨てたが(以前にも作成して削除しているので2度目の削除だった)、Twitterはなかなか踏ん切りがつかなかった。それも「あーなんかもういいや」みたいな気分のときに「えいやっ」と削除した。もともとこちらは知り合いをフォローしていなかったので問題といえば好きなバンドが最近何してるのかとか、好きな漫画家の呟きが見れなくなったくらいである。

 

問題はLINEだった。確か今朝散歩(というか深夜俳諧)を早々に切り上げて布団に再度潜り込んだ僕がしたことと言えば、このSNSのアカウントの消去だった。何故消去したかったのかは、正直なところよく分からない。とにかく人目に付きたくなかった。人目に付きたくなくなった。話下手なくせにおしゃべりで、一人でいることが好きなのに人に構ってもらえないと途端にしょんぼりしてしまう面倒くさい人間なのが僕なのだが、もうそんな自分には疲れた。飽きた。あるいは慣れたと言ってもいい。

 

「あーはいはい、また構って欲しくなっちゃたのね。おしゃべりに付き合って欲しくなっちゃったのね」と自覚するたびに、こんな人間なのに何様だよと思うことが、多分この面倒な性格よりも憎らしくなったのではないかと思う。真相は分からないが。あるいは、これも構ってアピールなのかもしれない。それでも僕は僕に愛想を尽かすことはあっても、見放すことはできないのでここに書いているのだと思う。これも真相は分からないけれど。

 

深夜俳諧の後にSNSのアカウントを削除した僕がとった行動は本を買いに行くことだった。日曜日の午前中に済ます用事としては、まあ別におかしなことじゃないと思う。現在進行形で労働から目を逸らし続けている人間に曜日など関係ないのだが、それでも、本を買いに行くという用事を済ませただけでなんだか社会に馴染めている気がした。何言ってるんだろうと、自分でも思う。

 

本を買いに行くことは突然思い付いたことではなかった。もうすぐ7月になる。7月になるということは僕に残された時間はあと3か月を切るということを示している。復学に向けて少しずつ動き出さなくてはならない。それがどんなに嫌なことでも。わがままにわがままを重ねるとどうなるか、考えなくとも分かることだ。いわゆる八方塞がりというやつである。どん底の泥沼に足を絡めとられる、いや体を預けるなんてことになったら、いくら常時低空飛行でいないと身が持たない僕であっても死んでしまう。誇張でなく。

 

復学に向けての準備の一環として、まずは読書の習慣を取り戻す必要があった。軽めのジャブにもならない雀の涙ほどの前進だが、急上昇思考の持ち主であり向上心のない僕にはそれくらいがちょうどいいのだろうと思う。いきなりドイツ語マスターして超越論的分析論に取り掛かる気にはならないけれど、英語とフランス語の感を取り戻してヴィトゲンシュタインバタイユくらい読みたいと考えてしまうくらいには向こう見ず(つまりは馬鹿)なことは考えてしまった僕なのだから、それくらいがちょうどいいはずだ。読書といってもガチガチの哲学系ではなく、趣味としての読書から取り戻そうと思ったので、前々から気になっていたカフカの『幸福な死』を買おうと思ったのだが、最寄りの本屋には在庫がなかった。まあ、ないなら仕方がないので、かなりハードルを下げてクビキリサイクルを読み終えてから手を付けていなかった戯言シリーズを読むことにした。クビシメロマンチストを買った。嫌いじゃない、こういうタイトル。

 

復学に向けての準備に話を戻すが、いろいろやらなくてはならないと思ってパンクする低スペックな脳みそしか持ち合わせていない僕は、とりあえずギリシャ語は諦めることにした。何故アリストテレスの『詩学』を原語で読む授業に出ようとしたのかさっぱり思い出せなかったからだ。さらに言えば、カントだって「やっとかなあかんよなあ」程度の認識でしかなかった。僕にとって面白いテーマは、未だ言葉にはできないけれど、永井均の『<私>のメタフィジックス』に隠れていた気がするので、ヴィトゲンシュタインには触れておきたい。「この大学院に来てなぜヴィトゲンシュタイン?」というツッコミが来るのは明白なので、何かでっち上げないといけないのが痛いところだが。野家啓一でも読んでおくか。あるいは現象学関連の本(と言っても数冊しか手元にない)を読み直すか。まあ、どっちも読めって話だろうが。哲学に携わる人間と関わるということは終わることない批判に身を晒すことと同義なので、留学時代に身についた気がした神経の図太さは取り戻しておきたい。

 

早くも胃が痛くなってきたので、今一度現実から目を逸らしておこうと思う。体が資本なら心だって大事な資本なのだ。