pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

プロタゴニストの役割

『結物語』を読んだ。僕はレビューのようなものは苦手なので箇条書きのような書き方になってしまうかもしれないが、気になった点などをつらつらと書いていこうかと思う。全然消化し切れていないけれど、消化しきった後に何か書こうとしてもつまらないものしか書けないだろうから、もやもやしたまま書くことにしたい。

 

のだが、まずは「前回の記事で「当分読書なんかできっこない」みたいなことを書いておいて3日後には読書してんじゃねえか」と自分で自分にツッコミをいれざるをえない状況なので先にことの経緯を。まあ、大したことじゃないが。

 

今日は2度目の「傷物語 冷血篇」を見に行こうとしていた。来場者特典の短編小説『混物語 みここコミュニティ』が欲しかったからである。物語シリーズの主人公である阿良々木暦とメインヒロインの戦場ヶ原ひたぎ、阿良々木くんの幼馴染の老倉育が合コンに行くというお話らしかったので是が非でも読みたかったのだ。なんかもう想像もつかない展開になるのではないだろうかと胸躍らせていたのである。しかし、よくよく考えたらこの来場者特典は『結物語』発売後に配布されている。一応、(少なくとも西尾維新作品中)物語シリーズではそういう時系列ネタのギャグもあったりするので、ギャグの味を存分に楽しむために販売順というか人の目に触れた順に沿うべきだと考えた次第である。

 

ちなみに今日は映画を見ずに帰った。何でも特典が足りなくなってしまったから一時入場を待って欲しいとのことだった。仕方がないから待とうと思い、5分から10分待った。なかなか館内アナウンスが流れなかったので、一旦トイレに行った。その後もアナウンスは流れなかった。上映開始時間を50分くらい過ぎていたのでさすがにどうなってるのかと思いスタッフに聞いたら「もう開場しています」と言われてしまった。トイレに行った数分の間にアナウンスされてしまったらしい。まあ小説だけもらって途中から見るのもありかなと思っていたのだが、別の上映日のチケットと引き換えてくれた。とても親切なスタッフ陣だった。ご迷惑をかけて申し訳ありませんでしたと言われたので、僕も同じ言葉を返した。こちらこそトイレなんか行ってすいませんでしたと思った。

 

さらにちなみに、映画を見なかったかわりに何かしたいとおかしなこと(先週の土曜日以来、買い出しを除けば久しぶりの外出だったのでかなり人に疲れたので帰ろうとも思っていたのに)を考えてしまったのでcoenでジャケットを買った。60%引きだったし、しっかりした作りだったので長持ちしそうだったからだ。買った後すぐに「誰に見せるわけでもないのに」と後悔したが、ジャケット自体は気に入っている。その後ダーツをしに行った。6時間ほど投げて、自分の伸びしろが見えないことと通信対戦時の緊張の具合から見て自分にはやはりダーツは向いていないのではないかと思った。だが初めて1か月だし、やっぱり狙ったところに入ると嬉しいし、また行こうと思う。

 

ようやく本題に入る。『結物語』だ。作品の大筋としては「社会人一年目の阿良々木くんが久しく会っていなかった旧友との再会をきっかけに高校時代を振り返る」というものになっている。とりあえず、歳を重ねた阿良々木くんはやんちゃなツッコミをあまりしなくなってしまったので個人的には悲しい。まあ、社会人にもなればおふざけばかりしてはいられないのだろうから、ギャグのキレに関しては仕方がない。一方で、西尾維新の言葉遊びの技術は「ほほお~」となるシーンが多かったので安心した。いやいや、とはいえ阿良々木くんが語り部としての作品が久しぶりだったのでギャグパートをギャクの新しさでついつい見てしまっていたけれど、彼と彼の妹である阿良々木月火ちゃんの掛け合いも健在だったのだから文句は言うまい。満足である。

 

そんな彼の職場には彼と同じような境遇のものたちが集まっていたのだが、どこか自分を特別視してしまっていた自分を恥ずかしく思ったり、同時に似たような経験を持った同僚との仕事を楽しく感じていたりしていた彼の

 

「たとえ不死身同士だったとしても、似たような過去を背負っていても、僕たちがそれを共有することは決してできないのだから。

人間と人間がそうであるように。」(P.76上段3-6行目)

 

というモノローグは心にどっしり響いた。なんだか、こんな場所で書くことではないのだけれど、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』を思い出した。彼の言う「分有partagé」と阿良々木くんが語った「共有」は全く別の文脈で言われているものというわけでも、かといって似たような意味で使われているわけでもないのだけれど、だからこれは感想とか考察でもないただの、それこそモノローグでしかないのだけれど、阿良々木くんの言うようにある人間が他の人間と共有しているものなどないのだろうなあと思った。人間であることを共有していると言っても人間をどう理解しているかは人それぞれだし、最小公倍数的な共通理解の中にあるのはただの「人間」という言葉の言語的機能、言い換えれば概念でしかない。定義でしかない。ただその定義に従うことでしか人間は分かり合えないのである。「共有する」という行為を為そうとする際に必要な要件でしかないそれらを「共有している」ことで満足な人はそれでいいけれど、所詮形式的なものでしかない。ナンシーの文脈に引き寄せて言い変えることは、この二つの言葉が使われた「文脈(意味)上」不可能なので、まあほとんどこじつけというか、何か面白い視点が開けた気がしたから書いただけである。

 

こんな面倒くさい気付きは置いておいて、やはりファーストシーズン・セカンドシーズン・ファイナルシーズンにおいて登場していたキャラクターの約5年後を見れたのはファンとして嬉しいことである。特に、僕は忍野扇老倉育が好きだったので、扇ちゃんの「私は何も知りませんよ、あなたが知っているんです」のあのセリフが聞けた(読めた)ときには涙が出るほど嬉しかった。阿良々木くんの自罰的な感情が生み出した怪異であり、言うなれば彼の持つ劣等感が引き起こした怪異である彼女を悪く言う人も多いけれど、やはり『終物語(下)』終盤での阿良々木くんと扇ちゃんの掛け合いを読んだときは僕まで救われた気持ちになったし、誰よりも阿良々木くんを愛しているキャラクターの一人であることは間違いないので、ここは個人の趣味なのだろう。あと老倉育の「30歳過ぎてもお互い独身だったら絞め殺し合いましょう」もゾクッと来た。趣味は人それぞれである。

 

楽しい話は続かない。今回の作品は考えさせられることが多かった。初めて『化物語』を読んだとき僕は大学生だったし、今作でも阿良々木くんは23歳なので僕より年下のままなのだが、どうしても自分と比較してしまうのだ。架空の人物と自分を比較してどうすると自分でも思うのだが、なんというか、劣等感を抱きやすいところとか、ちょっと変人なところとか、すごく親近感が湧いてしまう。誰だって多かれ少なかれそうなのだろうと思うから、僕個人が物凄く親近感を覚えるというわけでもないのだけれど、初めて物語シリーズを読んだときからそのように思っていた。ただ、阿良々木くんは劣等感抱えててもちょっと頭おかしくても、それでもかっこいいところがあって、そんな人になりたいなとかずっと思っていて、だから物語シリーズが大好きなのだが、「みとめウルフ」で、歳を重ねた阿良々木くんが羽川とのわだかまりというか彼が抱えていたもやもやを乗り越えている(少なくともそのように見える)ところとかを見ると、僕は何にも成長していないと痛感してしまう。

 

未だに以前付き合っていた人たちとのことを考えて、あのときこうしていればよかったなどと後悔しているし、後悔するのをやめてもいいものなのかも分からない。そうやって悩んでいないと、自分で自分をけなし続け、批判し続けないといけない気がしてしまう。僕は甘ったれな人間だから、どうしても被害者面をしてしまいそうで怖いし、そんな自分が嫌だ。こうしてぐるぐる悩み続けてしまう。先のことはあんまり考えたくないけど、たまにはそうしたこともしっかり考えて、自分の幸せを考えていきたいと思うときもある。だがそうであっても、過去の失敗はやっぱりなくならないし頭の中から消えてはくれない。昔の出来事に依存してしまっている自分を、阿良々木くんみたいに(というのは彼に失礼だが)乗り越えていきたいけれど、その方法が分からない。乗り越えるための「なにか」もない。今の自分に自信を持てるようなものが僕にはない。語学力もない。哲学的なセンスも知識もない。社交性も、忍耐力もない。だから今もこうして休学という体を装って逃げ回っている。そして、それを良しと開き直ることすらできない。感情が持続しない。

 

自分で自分に罪を擦り付けて、自分で自分を許そうとしない。自作自演もいいところである。結局は自己憐憫でしかなく、自虐趣味でしかないのだろうと思う。そう思っていることも含めて、自己憐憫や自虐趣味に含まれているのだろうからたちが悪い。

 

作品の終盤で今作の趣旨(阿良々木くんが昔のことを振り返る)を振り返ったシーンを読んで思い起こすと、僕は帰省して高校時代の友人と再会してもとりわけ「昔は楽しかった」みたいな話をするわけでも思うわけでもないけれど、それでも例にもれず阿良々木くんのように僕も友人たちを含んだ周囲の人間と自分を比べて、勝手に劣等感を抱いてしまう。そんなことも彼はうまくまとめていて、それがいいことなのかどうかは当人以外には分からない(変な言い方になるが、作者である西尾維新ですら分からないし、分かったつもりになってはいけないと思うのだ)が、僕はただひたすらに羨ましかった。

 

こんな風に自分に引き付けて考えなければ『結物語』はエンターテイメント小説として申し分ない作品であることは言うまでもないが、僕みたいな人間はどうしてもそれをしてしまう。難儀な人間だなあと自分でも思うし、気色悪い人間だなあとも思う。ようするに通常運転である。

 

そう言えば名前だけ登場したキャラクターが数名いたが、次作以降のモンスターシーズンで活躍するのだろうか。というか、128頁上段2行目のダッシュ記号後の「すわ」はなんだったのだろうか。いつも通りに、次作が早くも楽しみである。