pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

長めの正月ボケ、あるいは…

正月ボケかもしれない。社会人になんてなれっこないと思い大学院に進学した上に、興味が持てなくなったなんて理由で休学しているゴミ人間を正月ボケなんてかわいい言葉で形容することが許されるのであれば、の話だが。

 

後半に行くにつれて自分でも何について考えているのか、誰に対して釈明しているのか、自分の本心は何なのか分からなくなるのが常だし、日に日に「ものを考える」ということができなくなってきているが、記事のはじめくらいはきちんと具体的なテーマのある話をしようと思う。

 

今回はダーツのお話。10月に大学の友人が訪ねてきてくれてから、もう完璧にダーツにハマってしまった。寝ても覚めてもダーツのことばかり考えてしまうというほどではないのだが、起きている間の半分くらいはダーツのことを考えていると思う。よく行く比較的安い料金設定のダーツもできるインターネットカフェでひたすら投げ込んでいるとき以外は呆けてしまっているくらいだ。この状態が続くのであれば、もはやこれは正月ボケではなくダーツシックと言えるかもしれない。

 

とはいえ、僕は別にダーツが上手なわけではない。というかスポーツ全般に関して若干の引け目というか、抵抗感がある。見ている分にはいいのだが、やるとなると話が違う。頭の中で思い浮かべている動きを体が再現できないとでも言えばいいのだろうか。小学校4年生から高校2年生の夏くらいまで、僕はサッカー部に所属していた。特別サッカーが好きだったというわけではなく、ただ単純に誘われたからやってみたという理由だった。それから、人間関係に疲れ切って退部するまで放課後の時間をサッカーに費やしていたというわけである。ようするに惰性だ。部活をやめてからはまるで今までの生活が嘘のように人生が楽しいと思えるようになったり、部活をやめてから本格的にサッカーに興味を持てるようになったり、といった横道に逸れて脱線したいのだが、そうするとおそらくダーツとは関係ない話になってしまいかねないのでやめておこう。

 

ともかく、スポーツに自信が持てない僕であっても(とは言えサッカーしかやったことがないのだし、個人競技には一切関わりがなかったのだから、いささか語弊があるかもしれないが)、いや、そういう人間だったからこそダーツにハマったのかもしれない。

 

一人で投げている間、「今のフォームは少し思い描いていたのとズレていたなあ」とか、「今の一投は指が引っ掛かってしまったなあ」など、いろいろ考え試行錯誤しているので、「大学院復学してもきっともう哲学に興味なんて持てないし、周りの人とも仲良くできないだろうし、予習復習だって気乗りしなくてサボっちゃうだろうし、論文なんか書きたくない」とか、「かと言って大学院を退学しても社会人になる自信なんかないし、もし社会人になっても周りに迷惑かけたりあるいはこっちが頭おかしくなっちゃうかもしれないしどうしたらいいんだろう」など考えないで済むので非常に気が楽である。休学前、友人に現状を相談したところひとまず哲学から離れて遊びまくってみたらいいのではないかと言われたのを思い出した。

 

一方で、現実的な話になるが、1月は派遣のお仕事の求人が驚くほど少なかった。おそらく月末まで全く働くことができずに終わると思う。2月以降の求人数にもよるが、もしこのまま件数が増えないのであれば新しく別の派遣会社に登録する必要があるかもしれない。そして、ダーツには食費を切り詰めたとしても多くて週に2回行ければいい程度になってしまうだろう。今までもそうだったが、せっかくダーツという趣味を見つけられたけれど、哲学から離れて遊びまくるというのは案外僕にとっては難しいことのようだ。

 

「プロダーツプレイヤーにでもなって足りない分の生活費はダーツバーなどのダーツを投げれるお店で働いて稼げたら幸せだなあ、ネットサーフィン中に「ニート大募集!」や「既卒でもOK!」などの広告を目にするたびに胃が痛くなる必要もないし」

 

などと浮かれている場合ではないのだ。プロのダーツプレイヤーであってもスポンサーがつかなければダーツ一本で生きていくことはできないし、そもそも大きな大会で名前を残さなければスポンサーはつかない。相当に険しい道なのだ。ちなみにある程度うまくなればプロのライセンス自体は取得できる。多分プロより上手いアマチュアはごまんといるのではないだろうか。

 

話は変わるが、5日後の1月28日に、僕が大学院入試で初めて仙台を訪れてからちょうど一年経つ。あのときはこんなことになるとはかけらも思わなかった。それでも普通の社会人として生きるくらいなら死んだ方がマシだという思いは変わらない。というか普通の社会人として生きていくことになったら今の僕はいなくなってしまうだろう。僕らしい僕でなくなって家族への恩を返すことを優先することは、おそらく美談にもならない当たり前のことである。多くの人はそう考えるのではないか。当たり前のことだから我慢できる人は、そう考えるのだろう。いや、実際のところ僕だって親にこれ以上迷惑をかけたくない気持ちくらい持ち合わせている。

 

まあ、結局僕は下劣なエゴイストに過ぎず自分のことしか考えていないのだろう。そうではないのだと主張する手立てはなく、そうではないのだと証明する頭を持ち合わせてもいない。証明したところで僕の悪癖が許されるわけでもないし、明るい展望を抱けるわけでもない。周囲に対する劣等感は依然として僕の心にへばりついているし、自分をごまかして生きているように思える社会人たちを心のどこかで可哀想などと思っている頭のおかしさも健在である。僕のことを理解してくれる人は少数だがいる。しかし、彼らだって僕がいつまでもこんな腑抜けのままであったり煮え切らないままだったら愛想を尽かしてしまうだろう。だったら、まっとうに働くなんて万人受けする万人向けの選択肢に煩わされずに、僕みたいな社会不適合な人間でも何とか最低限の周りへの迷惑で最大限の幸福を手にする生き方を考えるべきではないだろうか。いや、開き直ったところで、この重苦しい感情は消えてはくれないのだけれど。

 

それに、開き直って前向きに考えようとしても、そうした生き方は必然的に少数派のものになるだろうし、それゆえに参考になるものも少ない。何が正しいのかも分からないから、自分の感覚に身を委ねる機会も増えるだろう。そんな大胆さは僕にはないけど、とはいえ日本の経済社会に消費者という立場でなく関わっていくことは僕のような不器用な人間には恐ろしく難しい。邪魔にならないところでひっそりと生きて、ひっそりと消えてしまいたい。生き方よりも死に方ばかり考えてしまうような、逃げることばかり考えている人間はどこでどうしていればいいのだろうか。

 

これからのことを考えると「死ね、あるいは働け」という言葉が頭を占拠する。悪いのは僕なのか、あるいは既存の社会なのかなどと考えたところで無駄である。部分的な欠陥であっても構造的な欠陥であっても、罪悪感からは逃げられない。