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pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

今年最後の大失敗と今年最後の偏屈

自分の自制心のなさを後悔するときほど惨めな気持ちになることはないだろう。少なくとも、最も自らを惨めに思うときのうちの一つではあるということだけは確信を持って言える。

 

数時間前に戻れるのであれば戻りたい。昔から何度もこんな気持ちを味わってきたけれど、今回ばかりはその理由すら情けなくてより自分が惨めな、そして無思慮な人間であると感じている。

 

ソシャゲで課金とか…不定期での仕事になる日雇い労働者がやっていいことじゃねえよ…

 

言葉遣いが乱れたが、自分で自分に呆れてしまう額を使ってしまったがゆえの乱れである。金額をぼかす辺りも妙なプライドというか保身の気持ちが丸見えで情けない。いや、恥を上塗りすることは必ずしも美徳ではないのだが。

 

あーなんでほんとにあんなことにお金使っちゃったんだよ労働の辛さ身に染みてわかってんだろうが…

 

またも言葉に乱れが出たが、自らにかける言葉において遠慮など無用である。罵りたいだけ罵るべきなのだ。基本無料のゲームというものは、無料で遊べるがゆえの楽しみ方の限界が存在する。簡単に言えば、欲を出してはいけないのだ。そして続けて簡単に言えば、僕は欲を出してしまったのである。

 

来月13日に12月の最終週に働いた分の給料が入るが、その金額では到底カバーできない金額をたった1時間ほどで使ってしまった自分の愚かさを呪うしかない。たとえ望んだ結果が金銭によって達成できていたとしても自らを恥じるくらいの損失だった。

 

あの1時間に僅かながらの自制心が働いていれば。午前1時、僅かながらの謙虚さがあれば。

 

たらればを語っていても仕方ないけれど、立場を弁えず行ってしまった課金という重罪を犯したあと、すぐに胃痛に襲われた。いや、被害者面をしようというのではない。これはいわば報いである。被って当然の罰である。だから、この胃の締め付けられるような痛みを気にしてはいないのだ。ただ、この痛みで罪の重さを改めて思い知っているということを書きたかった。

 

語り口が大仰になってしまった。事実はただ「身の丈に合わない遊びをしたがゆえの損失をした」というだけなのだが。そしてその損失も働いてすぐに取り戻せるというわけでもないが、すぐでなければ十分に取り戻せる。しかし、親の負担を少しでも減らすため、そして自らの精神的な均衡を保つために始めたバイトだったが、今回ばかりは小遣い稼ぎだとか、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなったのである。

 

12月は日雇いバイト業界(そんな業界があるのかどうかはわからないし、そんな呼ばれ方をしているのかどうかもわからないが)にとっては繁忙期である。そして、1月の頭も同じく繁忙期である。逆に言えば、以降は相対的に求人数が一気に減少する。その影響かは知らないが、僕の登録している派遣会社が取ってきてくれた仕事はもうほとんど埋まってしまっているという事実が、余計に僕を焦らせている。それに、治験のバイトも募集が全くといっていいほどない。

 

大失態をしでかしてから5時間が経ったが、僕の神経は未だに興奮状態にあるようで、なかなか寝付けない。もう当分自分にできる仕事はないし、ならば心と体を休めておくべきであると、そう思うのだが、体が言うことを聞かないのである。

 

小心者で卑屈で卑怯な僕は、ついでに言えば甲斐性もなく自分に自信もない僕は「1月の二週目に12月に働いた分の給料が入るし、日雇いの仕事もキャンセルが出たときに入れさえすればすぐに挽回できるんだから、今日はもう気持ち切り替えて寝よう!」などとは到底思えない。一人暮らしを始めるにあたって必要最低限買わなくてはならないと思えたものたちも、もはや必要なかったのではないかと思えてくる。リボ払いにしなくてはやっていけなかったが、リボ払いの重みが今になってのしかかってきた。だからと言って、それら生活必需品はインターネットなどで売れるような類のものではないから、大事に使い続けるしかないのだが。

 

どれだけ親に迷惑をかければ気が済むのだろうか。子を産んだ以上親が取るべき責任の範疇を超えているではないか。

 

何に対してもよりよい行為、ベターな行為というのは考えればいくらでもあるのだが、現実問題として僕のような人間には達成不可能なものだって中にはある。というか、ときにそういった選択肢は目的をないがしろにした手段となってしまうことすらある。何が言いたいのかと言えば、まあこれはただの自己弁護で、自分可愛さの主張なのだろう。親に甘えて生きてきている、親に甘えて生き続けてしまった自分を正当化しようとしている。

 

どこまで惨めで未熟なのだ。24歳にもなって情けなくなった。

 

5時間の間うまくまとまらなくて吐き出せずにいた気持ちを一度吐き出すことができたので、とりあえず先のことを考えよう。働ける仕事があればすぐに応募する。それしかない。無駄な買い物や出費というのは、よくよく考えれば今まであまりというかほとんどしていないから、あとは食費を削るしかない。これで行こう。

 

話は変わるが、よく悩み相談などに対する答えで「あなたより不幸な人間も、努力して事態を改善して頑張って生きている。だからあなたも頑張ってください」のようなものがあるが、あれはいただけない。頑張ることができたらすでに頑張っているからだ。こうしたある意味不謹慎でさえある応答の根源は、何も日本の社会に特有のものではないので、何を批判すべきかと言われると答えに窮してしまう。

 

ただ、一つ言えるのはああいう返しができる人間は人生において何か成功と呼べるものを持っている人間ではないかと思う。あるいは、一般論によってその立場を保証されている人間ではないかと思う。僕にはそう思えてならない。僕の考えが偏屈なのも、そもそも僕の性格が偏屈なのも分かっているが、彼らは自分の成功の下に、その成功の反面である失敗の側の人間のことを思いやることはないのだ。

 

努力したから報われた。報われなかったのは努力が足りなかったからだ。そんな論調が許されているのは、僕のようなまっとうな人間とはあまり言えないものにとっては、たいそう居心地の悪い響きを孕んでいる。居心地が悪いのだ。いてはいけないところに紛れ込んでしまっている感じがするのだ。こんな出来の悪い、クラスに一人はいるみんなと仲良くなれない一人ぼっちの人間のような気持ちになる。これも偏見だろうが。

 

まともでいることは難しい。その難しさに向き合うことも難しい。劣等感に苛まれ、それでもバランスを保つために自分が特別だなどと誤魔化してしまったりする。こうした行為が間違っているとは思わないし、自然な行為だとすら思える。だけど、こんなことをしても、どうしてもまともに生きることができない人間は、まともに生きることができない人間でしかないのだ。最善策を取ったとしても、「まとも」と「偏屈」の間を超えることはできない。そのような越境は、誰が認めないのかは知らないが、少なくとも誰にも許されていないのだ。

 

僕のような人間は、僕なりの居心地の良さを見つけるしかない。そしてその居心地の良さのために犠牲になるのは、大抵の場合数少ない自分のまともさなのだ。周囲に馴染めない人間は別の円周を作り出すしかない。だから、頼むから、一思いに切り捨てて欲しい。まともになるよう唆さないで欲しい。

 

 

ここまで書いて、こんな記事が今年最後の記事になったらどうしようと不安になってきたので一度iPhoneを手放すことにしようと思う。何か書きたいことが見つかり、そしてそれを文字にする気力が出るよう祈るばかりである。