pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

凡人の散文

明日は派遣のお仕事である。派遣と言っても日雇いである。およそ一週間ぶりだ。明日の職場とは別の何度か行った職場は、結局仕事(主に人間関係)に馴染めず、可愛らしく言えば「気苦労が絶えなくなってしまって」、あるいはそのときの精神的な状況を忠実に表現しようとすれば「その場にいるだけで絶望感を感じ、人と話すことにすら嫌悪感を抱き、消えて無くなりたくなってしまったため」、何回かまた行く予定だったのだがキャンセルさせてもらった。そんなことがあって、一週間家にいることができた次第である。

 

言葉は難しい。厳密に言うなら、言葉を発する側の人間の意図を、受け取る側の人間に伝えやすくするための言葉選びが難しいのだ。いろいろ言い方を考えるが、僕自身僕の気持ちをうまく理解できず、したがってうまく表現できずにいることが多い。これについて考えれば考えるほど抜け出せなくなる。言葉というものは多分、普段人が思っているほど頼りにならず、思っているよりも薄っぺらい。こうして、僕は言葉の問題、表現の問題に絡め取られてしまう。言葉が単なる記号であったとしても、僕はその使用上の規則すらうまく理解できないだろう。

 

ともあれ、明日はバイトなのだ。布団にくるまってこの記事を書いている。早く寝なければならないと思って布団に入ったのは多分1時間ほど前のことになる。家にこもっていた一週間の間で、平日は毎日働いていたときの生活習慣とズレが生じてしまったから、まあいきなり早く寝るというのも無理な話である。

 

そう思っていたから、ある程度寝付きが悪いのは仕方ないと思っていたのだが、布団に入って何もせずにいると、いつものようにさまざまなことを考えてしまう。一つ一つのことが何であったかすらわからなくなってしまうほどに、それらは僕の頭の中に入ってはすぐに出て行く。入眠前ほどものを考えるのに適していないときはないのかもしれないとさえ思えてくる。

 

種々雑多な観念が頭の中を行き交い、混じり合い、離散し、通り過ぎて行く。残るのは冷たく重い感情だけである。「生きていても仕方がない」という言葉は、僕にとってもう使い古された言葉になってしまった。

 

「早く終わって欲しい。まだ頑張らなきゃいけないのか。いつまで頑張ればいいのだろう。」

 

そんな風に思ってしまって、悲しくなってしまう。終わったことで憤慨し、終わったことで悲嘆に暮れる。言い返す相手はもういないから、一人語りが続いて行く。そのうち虚しさが押し寄せてきて、僕は眠れなくなる。

 

明日のバイトが終わったら土日がやってくる。それが終わったら明日と同じ職場で四日間働く。一年の終わりと次の一年の始まりを迎え、1月の3日から5日の間に帰省する。そう書いていて、また情緒不安定になりそうだと思った。

 

仙台に戻った後のことは考えていない。もう何もしたくない。何も考えずに眠っていたい。何も知らずにいたい。そんなことが許されていないことは、分かりすぎるほどに分かっているのだが。募るばかりのこうした思いに埋め尽くされ、段々思考が鈍くなる。身動きが取れなくなっていくにつれて、考えうることが少なくなっていく。考えうることが偏っていく。考えうることが沈んでいく。

 

昨日の僕も僕だったが、今日の僕も僕である。自己の連続性についての問いに悩まされるほど僕は賢くはないから、多分自分というものがぐちゃぐちゃに詰め合わされて、雑多にまとめあげられて、余計に自分が分からなくなるのだろう。「気分」とか「機嫌」とか、そんな言葉で片付けられるなら、さっさと片付けてしまいたかった。

 

僕の言葉は抽象的で、間接的で、婉曲的だと思った。それはやはり、僕が表現したいことを僕が理解していないからだろうか。あるいは、それは言葉にしたところで表現しきれないものだからだろうか。散文の領域は別として、韻文の領域すら、表現するものが表現したいものを十分に表現することはかなわないのではないか。記号は生の感情を表現できないのではないか。

 

考えてもきりがないけれど、考えることを放棄することは、僕にはできそうにない(しかし本当は考えることを放棄しているのではないだろうか)。