pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

どっちつかずな日曜日

昨日はなかなか寝付けなかった。0時前には眠ろうと思っていたのだが、例のゲームアプリに熱中してしまっていて、気付いたら日付が変わっていた。最終的に3時過ぎに寝たと思う。

 

もちろん、ゲームをしていてその時間になったわけではない。スマートフォンのゲームアプリは、やはりどこまでいっても暇つぶしにしかならない片手間にやるものなのである。では何をしていたのかと言うと、急な不安に襲われていたと言うのが最も正確な表現になると思う。急に不安がやってきて、急に頭が何やら考え始めていた。

 

不安はどのようにやってきたか。最近はあまりなかったのだが、寝付けない日々が続いていたころは、息がしずらく胸部が圧迫されているような感覚になったり、横になっているにも関わらず周囲がぐるぐる回っているように感じたり、物音に敏感になったりしていた。ようするに、昨晩久しぶりにそれがやって来たのである。

 

パニック障害という言葉が頭をよぎった。気付いた頃にはiPhoneで検索し、簡単な自己診断をしていた。結果はサイトによってまちまちであった。自分は病気ではないとホッとすると感じる人が大多数なのがこの世の中だと思うが、僕はそうではなかった。病気であったらどれほど楽か。

 

「病気ではないがときに病的である」

 

「病的と言うほどでもないがあまり普通ではない」

 

そんなラベリングに飽き飽きしているのだ、僕は。もういっそのこと病の身として自分を受け入れたい。あるいは、そういったものとは全く無関係になりたい。どっちつかずの僕にとっては、どっちつかずが一番のストレスなのである。僕はパニック障害ではない。広場恐怖症ではない。強迫神経症ではない。では一体僕は何なのだろう。「みんなと同じ」なのだろうか。特別でいたいとはあまり思わないけど、そして自分のことを特別だと思いたいわけでもないけど、事実として、「自分」という存在が自分にとって特別でない人間などいるはずもないだろう。僕はただ悩んでばかりの人間なのだろうか。

 

昨晩僕は悩んでいた。息苦しさとか、かすかな物音に対する恐怖心とか、そういったものに20分から30分くらい捉えられたあとの自己診断のちに、どっちつかずの自分がどこか情けなく感じだしたころのことだろうが、僕は復学について考えていた。

 

哲学とは、すべての人間にすべからく必要なものではない。何かの機会に哲学もどきに触れることはあっても、哲学なしで生きていくことは、事実上当たり前のことと言っても過言ではないだろう。僕には哲学は必要なのか。必要だとしたらどのようなものが必要なのか。主題は何なのか。意識か、自己か、他者か、時間か、自由意志か。一言で簡単にまとめることは難しい。意識を語る上で自己を語ることは避けて通ることはできないだろう。いや、こんなことはどうでもいい。

 

哲学的な問いとは何か。それが今の僕にとって、復学という語が頭の中から離れない僕にとって最も重要な問いである。僕は哲学的な問いを持っているのか。僕が抱いている問題意識は、単なる科学的な問いの一形態でしかないのではないか。つまり哲学専攻という立場から着手するにふさわしい問いではないのではないか。あるいは、現実に対する不満でしかないのではないか。自分の欠点を他人や社会のせいにしているだけではないのか。僕には哲学を必要とする資格すらないのではないか。上っ面を眺めて満足しているだけではないのか。僕はやはり、哲学もどきに気を取られているだけではないのか。そんなことばかり考えていた。

 

目が覚めても気分は晴れなかった。最近見返していたゆるゆりは、土日に入る前には一通り見終えていたので、昨日はギャラクシーエンジェルを見返していた。今日の午後にはそれも見終えた。今は久しぶりにさよなら絶望先生を見返している。薄っぺらいギャグアニメ(漫画)とは言え、中には真に迫るというか、確信を突いているなあと思える要素もあったりする。世の不条理についてだったり、死のうとすることの滑稽さ(あるいはこの場合「稚拙さ」と言い変えることができるかもしれない)だったり。もちろん、あくまでさよなら絶望先生はブラックユーモア作品でしかなく、主人公である糸色望も世の不条理に戸惑い翻弄され続けるほんの一例でしかないのだが。ああいう作品に感化されて死にたがっていると思われることだけは勘弁して欲しいが、まあ、周りから見たら、結局僕はそのような人間なのかもしれない。

 

明日は買い出しに行く。そのつもりである。外に出るのは億劫なのだ。億劫を通り越して言葉にできない、言葉にしがたい気持ちになることさえある。だから明日の予定はまだ未定と言った方がいいかもしれない。とりあえず、親がレトルトカレーを送ってきてくれたので白米は買わなくてはならない。親には頭が上がらない。僕は「親」にはなれないし、なろうとして失敗しても責任取れないと思う。これも甘えなのだろうか。断食でもしてみようか。ほうじ茶飲んでれば落ち着くし、たばこもあるし。

 

こんな頭で考えごとをしてみても、考えごとをさせられていても(自分の意志とは無関係に、言うなれば消極的あるいは非-積極的に考えごとをしてしまうのだからこのような表現にもなってしまう)すぐにあちこちにふらついてしまうので、何も考えずに(何も考えないでいられそうなのであれば)今日はもう布団に入った方がいいのかもしれない。お風呂に入って、歯を磨いて、明日に備えよう。