pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

何もない日、何も起こらない日

今日は何も頭に入ってこない日だった。

 

アニメを見てても、音楽聞いてても、雑念が取れない。雑念というか、バイトであった嫌なことをどうしても思い出してしまう。あのときこう言ってやればよかったとか、あの人はああ言っていたけど、それはほにゃららだから間違っているとか。そんなことばかり考えてしまう。趣味とは役に立たないものである。

 

他人の粗探しなんてみっともないと思うけれど、それも昔の出来事のそれなんて、余計にみっともないと思うけれど。

 

多分、そういう過去の嫌なことを忘れさせてくれるような何かが、僕にはない。僕には起きない。

 

「得体の知れない他人がうようよいる外になんか出てしまったら、また見ず知らずの他人の行動や発言の粗探しをしてしまうし、地下鉄で老人に席を譲らなかったとかそういうことで「他人に迷惑をかけてしまった」とかうだうだ悩んでしまう。だから家にいるのが一番安全なのだ」という訳の分からない理論を導き出して、そしてそれに納得して、僕は基本家から出ないことにしている。

 

そんなんだから何も起きないのだろうと思う。自分一人で過去の嫌なことを忘れることができるような何かが起きないのだろうと思う。いや、「思う」とか、そういう言葉で表現を濁すことはない。そんなんだから何も起きないのだ。原因は僕にある。僕は、他ならぬ僕のせいで昔話を蒸し返しているのだ。

 

こんなときには、なぜかというかやはりというか、将来について考えてしまう。「思ったよりつまらなかった」なんて理由で休学し、バイトもろくにせず、身になることなんて何もしていない僕は、果たして復学してからどうなるのだろうか。なんとかうまくやっていくなんてことはできないだろうが、なんとか付いていくことさえ難しいだろうが、復学後にはきちんと修士号を取るまで努力することができるのだろうか。

 

できたとして、社会に出ることを拒み続けた僕はそれからどうするのだろうか。どうなるのだろうか。やはり多くの社会人のような仕方で労働することを拒み、今度は博士号でも取ろうというのか。そんなに現実は甘くないのではないか。なんで僕は大学院に進学できたのだろうか。僕みたいな社会に適応していけない人間を救済して匿うのが大学院の役割というわけではないだろう。

 

はたまた、心機一転して就職活動でもするのだろうか。ろくな技術も持っておらず、だからもちろん社会に出たところで即戦力にはならず、かと言って何か潜在能力があるのかと言われれば、少なくとも僕はそれを自覚できてはいない。

 

バイトで得た経験からしか語れないけれど、僕はああいういろんな人が集まって働く環境というのに、適応できないのだ。繰り返しになるが、他人の粗探しばかりしてしまうのだ。自分のやるべきことをきちんとこなせていれば、それでもなんとかそこに置いておいてもらえるだろうが、そして僕も僕でなんとかプライドというかやりがいを感じることができるだろうが、それでも僕は僕の悪癖をどうにかする方法を知らないのだ。

 

なにより、興味を持てる分野というものが、僕にはない。まあ、就職活動を文字通り全くやっていないわけだから、どんな職種があるのかという問いかけに対する答えを持ち合わせてはいないのだが。とはいえ、それでも大まかな分布図というか、大まかな分類レベルでの職種についての知識くらいは持っていると思っている。調べれば、何か希望が見えてくるのだろうか。少しでもやってみたいと思える仕事に出会えるのだろうか。

 

大抵のことは、僕だって人並みにはできる。人並みな能力ならある。僕にないのは自分の悪癖を抑え込んだり、それと付き合っていくための知識である。あるいはそのための経験である。これは多分、大きなマイナス要素だろう。

 

あるいは、これも慣れの問題なのだろうか。24年生きてきて、自分の性格を良いものだと思ったことは一度もないが、悪いものだと思ったことなら数え切れないほどある。数え切れないほど、自己嫌悪している。そのたびに、なんとか浮き上がろうとして自己愛にすがってきた。いくら自分勝手な理屈であっても、自分を愛せるのであれば、その理屈にすがるしかなかった。

 

そのようにしか、生きられないのではないかと思う。「人は変わる」だとか「人は成長できる」だとか、そういうことを言う人は多いけれど、それは本当に変化だったのだろうか、成長だったのだろうか。もし本当にそうだったとしても、それはどの視点から、どのくらいの奥行きを持った視点から見れば言えるものなのだろうか。

 

極論を言えば、人がなすことはすべて生きるためのことである。食事もそうだし、買い物もそうだ。他人との会話もそうだし、もっと言えば政治もそうだ。食事も政治も人が生きるためのものだ。そう言える視点は確かに存在する。しかし、食事について、あるいは政治についてそれぞれ考えていけば、僕なんかがここで書かずともみんな知っているように、それらは「人が生きるため」という共通の目的を持っているとしても、明らかに別種の事柄である。

 

別の視点から言えば、つまり日本という一見恵まれた国の外の事情を考えれば、食事のために人の生を軽んじることさえあるし、政治的行為という名目で人の生を圧迫することだってある。

 

矛盾だらけではないか。

 

人間は大きな視野でものを見ることができる。しかし、その視野では見えないものが多くある。こんなことだって、ことさら僕が言わなくてはならないことではないはずだ。僕が言いたいのは、安易に他人の人生についてとやかく言うべきではない、それだけなのだ。

 

変わりたいと思っている。成長したいと思っている。そういう思いはある。だからその思いを誰かに疑われるのであれば、僕はもう自分を信用できないし(未だって半信半疑だが)、自分を見限るしかなくなる。

 

僕はきちんと納得したいだけなのだ。僕を納得させてくれる人がいないのだ。わがままを言っていることは分かっている。このわがままが原因で現実に誰かに嫌な思いをさせたくないから、僕はここを動かずにいるとも言える。

 

派遣スタッフとして働いてみて、優しい人もたくさんいたし、それと同じくらい嫌な人もたくさんいた。良いことも嫌なこともあった。僕は嫌なことを我慢できない性格だった。それだけなのだ。それなのに、僕は考え込んでしまう。書き切れないほど考えてしまう。悩んでいる最中の、言葉にできないことを言葉にしたくて考えてしまう。なんとか文字に起こしてみたけれど、不完全燃焼気味である。というか文字通りの不完全燃焼である。

 

納得して前に進みたい。これはわがままなのだろうし、あるいは完璧主義的な性格を持つ(しかし完璧に物事をこなすことのできない)「人間」が抱えることになる弊害の一つなのだろう。僕だけの問題ではなく、少なからず人間誰しもが抱える問題なのだ。

 

僕の悩みなど、その程度でしかないのだ。