pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

無自覚な嘘と知ったかぶりと

自ら死を選ぶことで何かの意思表示とすることは、珍しいことではない。老いて醜くなっていく自分が許さず死を選ぶというのはいささか古い感性だろうが、それだって「古い感性」と認識されるほどには、ありふれた自殺の原因である。心中自殺辺りも同様だろう。

 

では現代的なその原因は何になるのだろうか。よく聞くのは「いじめ」であるが、それは何も子供に限った話ではないだ。生きる希望を失い、生きていく上で何も期待できたくなるのは、何も知識や経験が比較的少なく、物事の考え方の幅も広がっていない小学生や中学生だけでない。自分は大人か子供かと悩み始める年頃を迎えた高校生や大学生だって、そして重要なのは社会に出て、「生活のため」あるいは「生きるため」と働き始めた人の中にだって、そういう道を選ぶ人はいるという点だろう。なんという皮肉だろう。

 

僕が社会人の自殺を重要と言ったのには理由がある。ただ歳を重ねるだけで人生の意義や生きることの意義を考えるようになるとは言えないだろうが、それでも彼ら社会人が小学生や中学生よりかはそれらについて考えているのは明らかだからである。

 

彼らが感情的な理由のみから死を選ぶのであっても、彼らが合理的に判断して死を選ぶのであっても、それは彼らの責任であり、彼らを「間違っている」と糾弾することはできない。その人が決めたことだし、その人の選んだことなのだ。自分に危害が加わるのではない限り、自分とは無関係である限り、何も言うべきではない。個人は個人の範疇を超えでた越権行為をするべきではない。

 

ニュースや新聞で絶えず人間の目に映り続ける、死を選んだ人々のことを「かわいそうに」と思う人が大勢だろう。しかし、中には「私ならそうはしなかった」「私なら我慢できた」「声をかけてくれればよかったのに」「バカなやつだ」「周りに迷惑をかけやがって」「親不孝だ」という厳しいものの見方をする人間もいる。声には出さずに。僕としては「もう死んだんだからそっとしといてやれよ」と思うのだが、そうは思わない人もいるというだろうな。

 

他人を攻撃しないと気が済まない類の人間というのも、やはりいるのだろう。どんな人間がいたっておかしくはないのだ(手が六本ある人間とか、そういう話ではなく)。また、他人の痛みを無視して自分の快楽のために、そういった出来事であっても「だし」にする人間もいるのだろう。それに、勝者には敗者の気持ちは分からないのだ(世間的にはこのような構図では合っているだろう。働き続けることは美徳であり、自ら死をふ選ぶことは一種の悪徳と思われているのだから)。

 

もし敗者の気持ちがわかるという勝者がいるのならば、それはまだ勝敗が決していない時点での話だろうし、過去の敗北から「自分が」感じたことを思い出しているに過ぎない。勝敗が決してからは、勝者は次の勝負まで勝者であり、敗者は次の勝負まで敗者である。立場が違うのだ。人間にアリの気持ちがわかるだろうか。アリに植物の気持ちがわかるだろうか。

 

何かを知った風にならないで欲しいのだ。何かを知ろうとすることを敬遠しないで欲しいのだ。日々流れる自殺に関するニュースなどを見て僕が思うのは以下の二つ、「楽になれたんだ、羨ましいな」そして「また筋違いの人間が筋違いのことをほざいて、自己満足に浸るのだろうな」である。

 

人間は分かり合えない。悟性understandingによって他人を知ることが「分かり合う」という言葉を使うための基準であるのなら、おそらくそれはいくら科学が進歩しても今後も変わらない事実だろう。人は想像力imaginationによって他人を擬似的に自らにおいて経験し直すことしかできないのだ。つまり以下のようないくつかの問いは、おそらく消えずに人間の知性に相対し続けるからだ。

 

本当にある他人Aは〜と思っていたのだろうか。また、そのAが感じたこと(「熱かった」や「痛かった」)は本当であったとしても、Aは嘘をつくこともできるのではないか。また、例えば別の人間B(の脳)が何かを熱かったと感じていても、B自身がその熱さに気付かないという事態はたいていの場合はないのだが、これが「熱さ」ではなく「痛み」であったらどうだろうか。それも肉体的な痛みではなく精神的なも痛みであったらどうだろう。B自身が本当は辛いと感じているにも関わらず、それに気付かずに「自分は辛いとは思っていない。まだまだ頑張れる」などと思っていたとしたらどうだろうか。

 

人間は自覚的にも無自覚的にも嘘をつくことができるのだ。人は多くのことを語りうる。しかしそのうちの大半は、口を出すべきではないことである。

 

余談だが、前途ある若者が希望や期待を無くして死んでしまったり、過労を苦にして死んでしまう人には、おそらく多くの人が優しい言葉をかけるだろう。ただ、僕みたいな自分勝手な理由で大学院に進学して休学して復学も怖いなんて思ってる人間が「もうたくさんだ!生きていてもいいことなんてないし、これで最後の迷惑にするから許してくれ!さようなら!」と死んでいったとしても誰も許してはくれないだろうし、それ以前に興味すら持たないだろうし、興味を持ってくれたところでやはり「迷惑なやつだ」と思うだけだろう。

 

そんなことを確認しても、それでも、もうなんか、言葉にならないくらい心が重たくて、苦しいのだ。