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pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

被害妄想と自己嫌悪

今日はバイトがなかった。オフである。家でアニメを見たりiPhoneでゲームをしていたりしたが、せっかくの休みなのにバイト中の嫌な思い出が付き纏ってきて、気分が晴れない。なので、憂さ晴らしを始めることにした。

 

 

現代において、労働についての一般的なイメージがどんなものか僕には分からないが、僕にとって労働とは不条理である。不条理なことがらのうちの一つが、労働なのである。

 

労働において作業を効率化しないことは非常識である。また、効率化を考えない人間は仕事のできない人間であると思われてしまう。もちろん僕もその考えに理解を示さないわけではない。はっきり言って、「何も考えていないんじゃないか」と思えるような人間と仕事をしていると、業務の効率化は常識的なことであり、やるのが当たり前のこと(なのだから、それを頭に入れずに働く人間は愚かである)と考えてしまうくらいである。

 

もともと何も考えずに働いてしまう人間がいれば、効率よく働けるように頑張りましょうと言われても、どうしてもそう働けない人間もいる。もちろん、もっと他の事情を抱えていて「常識的」でないと他人から思われてしまう人もいるだろう。派遣で日雇い労働をするようになってまだ2ヶ月かそこらだが、個人的に思う働きづらい職場か否かの分岐点は、派遣であろうとなかろうと、仕事に関わる情報の共有化が徹底されているかどうか、である。精一杯効率よく働こうとしていても、そこが抑えられていなければその努力は徒労に終わるだけである。

 

もちろん共有してはならない情報、共有しづらい情報、共有できない情報などもあるだろう。情報を得ることは、ときにある程度の責任を伴うことでもあるからだ。おそらくそうした類の情報には定式のようなものはなく、場合によりけりなことが多いだろうからここでは触れないが、業務の効率化のために明らかに共有すべき情報はあるはずである。

 

「派遣という立場だから知らされていないのだろうな」と痛感することや、知らされていないにも関わらず(明に暗に)説教まがいの注意をされることがしばしばある。まあ前者に関しては仕方ないことだと割り切って考えることはできるが、後者について考えていくと、そのように割り切って考えることが難しくなっていく。

 

 

「あれやって」「はい」

「これやって」「はい」

 

が最も効率の良いやり方であるのは、おそらく誰も否定できないだろう。また、もはや言われずとも分かっていることだろうが、早い話がこのやり方は情報を共有していくやり方とは両立しないのである。「なぜあれやこれをやらなくてはならないのか」を教えずにいるくせに、もう仕事を教えた気になっている上の立場の人間たちの無能さには呆れてしまう。言われたことだけをやる若者を非難する前になんとかすべきなのは「言ったこと」に対して質問を許さない態度である。

 

その業務がどのような役割を担うのか、その業務によって例えば他のどのような業務が発生してくるのか。仕事の全体像というものは、口頭などで説明されるよりも実際に「部分」に触れながらその先(ときにはその隣)を見通していく方がスムーズに伝わっていくものである。勘の良い人であれば、全体像を伝えられただけである部分の全体における役割をより高い精度で把握することができるだろうが、勘の良さというものを他人に求めるのは、たとえ上司であろうと越権だろう。

 

勘というものは、生まれ持った性質であったり経験を積んで得られるものであったり、一様ではない。そして、今僕が書いていることは、大雑把に言えば「仕事を教わるとはどのようなことか」「仕事を教えるとはどのようなことか」である。新人教育の際に求められる勘が後天的なものであるのであれば、それを求めた人間は頭が悪く、逆に先天的なものであるならば、それを求めた人間はなおのこと頭が悪い。

 

僕はとにかく、人の話を聞かないタイプの人間が嫌いである。なぜなら彼らのうちのあるタイプのグループは人を見た目で判断するか人を自分の頭の中の勝手な基準によってカテゴライズするからである。人を話を聞かない人間は、人と議論することができない人間なのである。何を言っても無駄だし、何を聞いても無駄である。癇癪を起こしてこちらを責めてくるのが関の山だろう。

 

また別のグループは、自分の頭の中にあるプロットを他人も分かっていると思って行動する。このグループは(他方のグループに比べれば)まだ人の話を聞く方であるが、「先制攻撃」を仕掛けてくることが多い。自分の知っていることは他人が知っていて当たり前だとでも思っているのだろうか。

 

ここまで書けばここであげた僕の嫌いな人間のうち、後者のグループが情報の共有化を拒む性質を持っていることは言うまでもない。何しろ人に質問をしないのだ。先制攻撃とはそういうことである。いきなり怒鳴りつけてくることさえある。どんなジャンルにおいても教育には向いていないだろう。たとえ自分にとっては周知の事実であると思われるようなことでも、他人が何を思って働いているのかは、そして他人が何を知っているのかは、他人の口から聞かねばならないのだ。

 

「あれやって」式の命令は仕事のなんたるかを教えないが、もっとも手っ取り早い教育かもしれない。だが、そのような教育しか受けなかったものが次の世代を教育するとなったとき、彼らにできる教育とはなんだろうか。彼らに仕事を教えた人たちを反面教師として生かすのでなければ、おそらく彼らも同じように後輩に指示を出し、気分次第で後輩を怒鳴りつけるような、そんな僕の嫌いな人間になるのだろう。

 

まあ、僕が憂いても仕方のないことだし、何より僕の嫌いな人間の条件をよくよく考えてみれば(あるいはよくよく考えるまでもなく)、まるで僕自身のことを言ってるように思えてくる。「自分のことを嫌う」というのはあまり世間一般的なことはないだろうから、僕の言ってることはあまり多くの人には伝わらないのかもしれないなあ。