pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

うつ病コンプレックス

数週間前(あるいは一か月以上前かもしれない)に、僕はこのブログを消した。じめじめしたこのブログに、自分でも飽き飽きとするくらい何にもなくただ欝々とした感情をぶつけていただけのこのブログに嫌気が差したからだ。消してしまいたい、と思ったわけではない。消したところで「あんなこと書いたな」という記憶は残ってしまう。だから、ただ目を背けたかったのだ。おそらく、何ごとかを「問う」ことから逃れたかったのだ。

 

こんな自分ではいたくはない(どんな自分なら満足なのだろう)。このままではもうまともな人間にはなれない(まともな人間とはどのような人間なのか、そして僕はまともな人間になりたいと思っているのだろうか)。どこにいても、誰といても、劣等感を感じながら、あるいは無根拠な優越感に浸りながら、他人を見下し、他人に怯える自分が嫌だった。僕は決然としておらず、やはり宙吊りのままだった。

 

同時に、誰が何を言ったところで、僕は今あるような自分でしかいられない。情緒の波に飲まれるばかりの自分をコントロールできない自分が自分なのだとも思っていた。仕方がないと諦めている自分がいた。

 

自分なんて信用ならないのだと思う。僕は頭が悪いのだと思う。哲学なんてものは僕の社交性のなさのための、あるいは僕の自己中心的な精神の単なる隠れ蓑や言い訳でしかなくて、そこで得た知識なんて半可通のものでしかなくて、僕には何も身についていないのだ思う。僕を信用していない僕なんて、そもそも信用できない。

 

布団に入ってもすぐには眠れない。一人じゃ生きていけないなあと心から思う。だけど誰とも一緒にはいられないなあとも心から思う。迷惑をかけるばかりで、僕は誰にも何も返せていない。返せる自信もない。返す気すらないのかもしれない。努力することが苦手なのだ。「努力すること」を努力することが苦手なのだ。半ば無理強いのような、自分で自分を偽るような、そんな努力が僕は大嫌いである。自然に、つまり自ずからの努力でないと、僕はできない。興味関心に忠実な人間なのである。少し誇らしいと思うが、かなり卑しいとも思う。興味も関心も持てない他人の面白くも参考にもならない話に上手に相槌を打つことすらできない。雑談もできないのだ。

 

「そんなことでは社会でやっていけないよ」

 

と、今日初めて会った、正しく興味も関心も持てない他人であり面白くも参考にもならない話をしてきた老人に言われた。お前に言われたくない、お前にそんなことを言う資格はない、お前に何が分かる。すぐに反抗的になってしまう。仰る通りではないか。僕には他人との円滑な、円満なコミュニケーションを取る能力がない。やっぱり僕は邪魔なんだなあと思う。もちろん、そう思うのは僕とその老人との関係においてのことであって、その場に居合わせたそれ以外の人間との関係においてではない。もしかしたら、初めての職場の初めて会った、つまり見ず知らずの他人にでさえ、僕はそう思われているのかもしれないけれど、もしそうだとしても、それはあまり気にはならない。

 

僕はよく欝々とした気分にはなるが、決してうつ病になるような人間ではないのだ。死にたいと叫んだとしても、決して自分から死ねるような人間ではないのだ。僕はうつ病になるほど真面目な人間ではないし、自分に無理をさせることのできる人間ではない。僕は散々悩んだ結果自殺を選ぶことはないし、そもそも悩みに終わりがないと思う。だから、そんな悩みを終わらせることに対してすら頭を抱えてしまう。「本当にそれでいいのか」と。衝動的に自殺を考えても、理性がそれを律してしまう。残念ながら、いついかなるときもそうであると言い切れないけれど。

 

精神科あるいは心療内科に行こうかと思った。でも、誰にもそうした方がいいと勧められてはいないし、そもそも何を言われても結局は「でも」「だって」と言って他人の話を、他人の言うことを素直に受け入れることのできない僕がそんなところに言ったとしても、時間と金の浪費以外の何ものにもならないだろう。もし行ったとしても、「わがまま言うな」「甘えるな」と説教されるだけだろう。そしてその説教に対しても、「でも」「だって」である。自分勝手な甘えん坊なのだ。僕は大人にはなれない、いつまでたっても子供のままの恥ずかしい人間なのだ。そんなことを認めたところで、何かが好転するわけでもないのだけれど。

 

本当に、自分のことはよく分からない。自分のことは自分が一番分かっているつもりだが、それは原理的に誰にとっても同じようにそうであるだけであって、特別自分が自分自身に対して深い理解を示すことができているわけではないのだろうと思う。僕は自分のことがよく分からないけれど、それでも他人よりは僕のことを分かっている(つもりである)。

 

こんなことを久しぶりに書くことになったのは、最近また立ちくらみと頭痛の頻度が増えたからだと思う。今年の4月から9月にかけて、僕は否定する術もないほどに気分が落ちていた。地獄くらいにまで落ちていたとは言わないが、底なし沼くらいには落ちていたと思う。あのときは朝方まで眠れなくても、僕が辛い思いをするというだけで特に問題はなかった。だけど、おそらくあの鬱期を終わらせてくれる大きな要因であった派遣のバイトをするにあたって、睡眠時間が取れないことは明らかに問題になりうる。一大事である。

 

バイト終わりにしては肉体的にはあまり疲れずに済んだのに、あの老人のせいで(おかげで)精神的にかなり参ってしまったから、今日は帰ったらすぐに寝ようと思った。他にやらなくてはいけないことはないし、ここ一週間ほど食欲が不安定というか、ものすごくお腹が空いたり、そうかと思えば何も食べたくなかったりといった状態が続いていたから、帰宅後すぐに荷物を降ろし、明日の準備を済ませて布団に入ったのだ。それが19時30分頃のことである。しかし30分ほどたっても眠れる気配がない。考えてしまうのだ。あの老人の言っていることは最もではあるけど、だけどあの人が僕の何を知っているのだろう。頭ごなしに他人を否定できるなんてすごいなあ。いや、あの人の言っていたことは本当に最もだったろうか。いつ終わるともしれない点検作業だった(現在こうした文章にすることでそれは中断されているが)。

 

それから急に「いなくなりたい」願望に取りつかれ(淡々と書いているが、僕は基本いつもこうである。死にたいと思ってもいなくなりたいと思っても、そんなことを思う僕をどこか斜め上から見つめている自分がいる)、iPhoneで「いなくなりたい」という語を検索していた。別に何が見つかるわけでもないというのに。そこから、頭痛が原因で眠れないのではないかと思い薬を飲んだり、「やっぱり僕は頭がおかしいのではないか、おかしいのだとしたらどこがおかしいのだろうか。病院に行って確かめてもらった方がいいのではないか。」と思い仙台市心療内科・精神科の病院を調べたりしていた。22時、唐突にこのブログのことを思い出し、現在膿を吐き出している。

 

思えば、眠れない日が増えてきたのは11月下旬に入ってからのような気がする。1月に一度帰省するから、「親不孝な人間ではあるけれど、それでもそれなりに、できる限りのことをしているよ」と親に言うことができるように、12月は週5日でバイトをするスケジュールを組んだのだ。バイトなんて比較的労働環境の整っていた(つまり精神的にも身体的にも最低限の疲労ですみ、職場にも職場の人たちにも慣れていたから気楽に働けて、割に合っていると思える程度の賃金を得ることができていた)去年ですら多くて週4日勤務だった。日数にしてたった1日しか違わないじゃないか、と思うかもしれないが、不慣れな職場の不慣れかつ見ず知らずの他人との作業なのだ。これが苦にならないはずがない。ましてや僕なのだ、ちょっとのことで簡単にくじけ、些細なことにビビってしまう僕なのだ。12月に入り今日から連勤が始まったわけだが、昨日までの僕はそれを考えただけで気が滅入っていた。

 

それでも何とか、まあ言ってしまえば「楽」できるように、肉体的にはもちろんそれ以上に精神的に疲れるであろう、僕と相性最悪の肉体労働は避けた。人と関わることが必須のイベント系の物も避けた。残ったものの中から、できるだけ時給が高くできるだけ穏やかそうな仕事を探した(もっとも、紹介メールだけでは細かいことはもちろん分からないので、10月から派遣を始めた僕の少ない経験を総動員して、想像力を働かせてのことだったが)。結果としては、今日の仕事は見るからに肉体労働系の仕事を普段している人たちとの仕事だったが、彼らとの距離感は分からずじまいだったけど、思ったほど怖い人たちではなかったし、休憩時間や空いた時間に話をしてくれた同じく派遣のバイトで来ていた学生がいたから何とかなった。本当に、あの老人だけが僕の神経に触る要素だった。20時くらいから22時くらいにかけての無駄な時間の原因はあの人であり、あの人のことを軽く受け流すことのできない僕だった。

 

原因は結局僕なのだ。僕は自己中心的な人間だから、だからこういうことの原因もすべて僕のように思ってしまうのだろうか。他人にうまく合わせることができないから、他人のことがよく分からないから、原因を僕に求めてしまうのだろうか。友達になれたらよかったのになと思う。今回のことを抜きにしても、これまで大人の人からいきなり怒られたり、いきなり怒鳴られたりしたことはあった。その場では「怖い」と思うことしかできず、そうした行為の不条理さに怒りがわいてくるのは必ずそのあとだった。家に帰ると、その怒りが行き場をなくして、僕の睡眠の邪魔をしてくるのである。

 

僕はあまり宗教に興味はないが、あるうつ病の女性が「自分は社会不適合な人間で、自分なんていない方がよくて、生きてても周りに迷惑をかけてしまうのが本当に嫌でどうしたらいいか分からない」という悩みを匿名での悩み相談サイトに投稿していて、あるお坊さんが「それはうつ病という病気のせいであって、あなた自身のせいではありません」と言っていた。何だか救いのある言葉だな、と思った。だけど、もし僕がうつ病で、同じ言葉をそのお坊さんが僕にかけてくれたときに、はたして僕は救われた気持ちになるだろうか。多分だけど、ならないと思う。

 

うつ病になる原因は僕にもあったのではないか、つまり外的要因のみがうつ病発症のトリガーなのだろうか。あるいは、僕自身のせいで周りに迷惑をかけてしまうのではない、と言っても、うつ病である僕自身のせいで周りが迷惑しているのは事実だし、現在うつ病にかかっているのなら、「僕」と「うつ病」は切っても切り離せないものになっているのだから、結局は僕のせいではないか。そう思ってしまうかもしれない。

 

また、大ざっぱな言い方になってしまうけれど、人生の意味が分からなかったり、自分の生に価値があるのかどうしても分からなくなってしまい、先ほどと同じく自分は生きていても周りに迷惑をかけるだけではないだろうかと悩んでしまう状態が持続して日常生活に支障をきたしてしまったとしよう。そうした袋小路に追い詰められたとき、もし自分がうつ病に限らず、何らかの精神疾患だったと分かったとしたら、はたしてその人は「自分が今このようなことに悩んでいるのは病気が原因なのだ」と分かることによって気が楽になるのだろうか。まあ、多少気が楽になるだろうとは僕も思う。だけど、外的要因のみがうつ病をはじめとする精神疾患の原因であるとは、やっぱり僕には思えないから、それでも自分が原因でこうなっているんだ、と思ってしまうだろう。

 

自己中心的に生きる人間は、やはり自分一人で、そして自分一人にのみ、苦痛や悲しみの原因を背負わなくてはならないのだろうか。それが世の中の筋というものなのだろうか。多分、そうなのだろう。

 

常識的な意味の外での、つまり一般的に了解されていることを点検する際においては、他者の経験の再現不可能性やひいては他者理解の不可能性(「ある人間が別のある人間を理解するにあたって、その人がそのために使用できる知的能力はただ想像力のみである」と言うことすらこの場合ありえない。なぜなら、僕にとって「ある人間」はすでに他者であり、他者の経験の再現不可能性を主張する以上、他者に対応する他の一項は「僕」以外ありえないからだ)を認めざるを得ないと考えているにもかかわらず、僕は他人の経験談を利用して「もし僕が~なら」と語っている。僕は単なる想像に怯えているにすぎない。だから、やっぱり僕がどれほど自分勝手であっても、僕は僕が被った不条理をただ憎んでいいのかもしれない。僕が生きていることが誰かの迷惑になることは、往々にしてありうることだが、だけどそれでも僕は僕を責めなくてもいいのかもしれない。

 

 

 

そんなことは、最初から分かっている。