pseudo-philosophe’s diary

他人の目があると思わないとうまく文章書けないので公開設定にはしてますが、目と頭の毒になるかもしれないのでふらっと立ち寄ってしまってもささっとお帰りになった方がよいかもしれません

酒とダーツと桑田佳祐

前回のブログのタイトルに『結物語』という単語を入れたからだろうが、アクセス数が恐ろしい右肩上がりになっていた。夥しいと言ってもいいくらいの上昇率だった。普通だったら、「自分なんかのブログがこんなにたくさんの人に読んでもらえてうれしい!」となるところだったろうが、僕にはただただ恐ろしかったことは言うまでもない。僕のような人間には対応の仕方が分からないこの現象もここ数日でようやく沈静化されてきたので、久しぶりにこのページに来てキーボードを叩いているというわけである。

 

このページに来たのは久しぶりだが、今日はそれ以上に久しぶりにアルコールを摂取している。去年のゴールデンウィークに高校時代の友人が2人遊びに来てくれたのだが、そのうちの一人が酒類の卸売りだかなんだかの職に就いたので、当のゴールデンウィークの一週間ほど前に下戸な僕では一人で飲みきれないほどの量のお酒を送ってきてくれたのである。あと数か月で送ってきてもらって一年になってしまうのが申し訳なくなっていたところだったので、チャミスルという韓国のお酒を飲んでいる。お酒が好きな人なら知っているものなのだろうか。僕は今日いざ消化してしまおうとラベルを見るまで名前すら知らなかった。

 

それにしても、もともとお酒には弱い体質なのに半年以上アルコールを摂取していなかったからか、二口程度でもう体が熱い。度数は18%だった。僕にとっては十分に強い。緑茶割りにしたらおいしそうだったのでやってみた。幾分飲みやすくなった。それでももう瞼が重い。お酒を飲むとすぐに頭が痛くなるか眠くなるか口が緩くなるか、ようするにすぐに酔っぱらってしまうのだが、なぜ今このタイミングで飲み始めたのだろう。よく分からない。相変わらずダーツしているとき以外はナマケモノのごとくちんたらぐうたらしている。

 

決算期前で派遣を呼びたくないのかどうかは分からないが、以前はよく働いていた職場からの求人が1月と2月の間は一切ない。肉体労働を余儀なくされる仕事やコミュニケーション能力が要求される仕事を除外すると必然的に日雇いバイトなど種類は限りなく限られてしまうから、僕にできそうな仕事がない2か月間である。仕事がなければ金がないのも必然なので、2月は7日に一度投げに行ったきりである。元も子もない言い方をすれば、金がなければ投げるなという話なのだが、その日は月に一度の席料半額の日(僕はダーツバーに通えるような人間性をしていないのでダーツもできるインターネットカフェによく行っている)だったので、「24時間滞在しても2000円かからなかったのだ!」とよく分からない自己弁護でごまかしている。まあ、誤魔化すことができているうちは健康なのではないかと思っている。

 

ダーツの話をすると、前回でようやく自分に合ったスタンス(立ち方)を見つけられた気がしている。グリップ(ダーツの持ち方)に関してはいろいろ試した結果、「あまりこだわらない方がいい」というネットの情報を鵜呑みにしていた。「こだわらない」を「とりあえず手に取ったときの持ち方で投げる」程度に考えていたので、やはりブルに入るときは気持ちよくはいるのだが入らないときは本当に入らなかった。いい加減「こだわらない」の仕方が悪いんじゃないかと思えてきたので、とりあえず抑えなければならない自分なりのポイントは抑えるようにしながら、自分なりに持ちやすい持ち方を探るようにしてみた。ダーツが指から離れるときに妙な回転が掛かってしまうのが嫌だったので、バレルに触れる面積をできるだけ少なくしていたけれど、考え方を変えてからは逆にしっかり握り込む形になった。一口にグリップに対して神経質にならないと言っても切り口は一つではないのだなと感じた。

 

カウントアップの成績を始めとして、01ゲームやクリケットのそれも徐々に上がってきているので今は毎日でも投げたい気分なのだが、金銭的にそうはいかないのが悲しい。先のことばかり考えて身動き取れなくなるのが常だが、ことダーツに関しては周囲に比較対象になる人間がそう多くいないこともあってか、飽きずに続けることができているが、そのうち何かにつけて理由を付けて劣等感を抱いてこの趣味も手放してしまうのだろうなと思うと、なお悲しい。

 

話は変わるが、今僕はサザンオールスターズの「世に万葉の花が咲くなり」を聞きながら記事を書いている。「君だけに夢をもう一度」が聞きたくてかけ始めたのだが、やはり「慕情」は言い曲だなと思う。何度聞いてもいい曲で、何度聞いてもさらによいと思える曲だ。サザンオールスターズの楽曲は今挙げた「慕情」のようなバラードもあればわざわざ名前を出すまでもなくいやらしいことで有名な曲もある。僕はアルバムを中心にして聞いているだけなのであまり詳しくはないが、彼らの大ヒット曲である「TSUNAMI」がリリースされる前年などは桑田佳祐の(エンターテイナーではなく)アーティストとしての持ち味が表現された楽曲が多かったようである。

 

また、ソロとしての活動では桑田佳祐のエンターテイナーとして、そしてアーティストとしての二面性が遺憾なく発揮されていると個人的に思っている。昨年発表された「君への手紙」のような万人受けする歌詞とメロディーも生み出せるし、最近再び僕の中でのヒットソングになっている「東京ジプシー・ローズ」などは時代を感じるロック・ソングである。尖っている。素直にかっこいい。年々歌もの曲が増えていっている彼だが、昔の作品を聞いているとやはり彼の中にある多面的な魅力に引き込まれる。ポップからバラード、さらにはプログレッシブ・ロック(とまでは言えないが)っぽさがほのかに醸し出されたロックまでなど、こうした引き出しが多いからこそ桑田佳祐サザンオールスターズとしての活動も個人名義としての活動も成功を収めているのではないかと思う。まあ、日本人がプログレやってもどうしても演歌っぽくなってしまうと感じる人は多いと思うし僕もその一人なので、最近の桑田佳祐のスタイルももちろん魅力的だ。

 

それにしてもチャミスルというこのお酒、僕にはやはり到底飲みきれない代物だったので(「どんだけ酒弱いんだよ…」と自分でツッコミを入れたくなる)、送ってくれた友人には悪いが半分くらい飲んで残りはシンクに流した。よく頑張った方だが、それでも情けないなあと思ってしまう。ほろ酔い程度で終わらせないと「頭痛い」と声に出てしまうほど頭が痛くなってしまうのだから仕方ない。引き際が肝心である。

プロタゴニストの役割

『結物語』を読んだ。僕はレビューのようなものは苦手なので箇条書きのような書き方になってしまうかもしれないが、気になった点などをつらつらと書いていこうかと思う。全然消化し切れていないけれど、消化しきった後に何か書こうとしてもつまらないものしか書けないだろうから、もやもやしたまま書くことにしたい。

 

のだが、まずは「前回の記事で「当分読書なんかできっこない」みたいなことを書いておいて3日後には読書してんじゃねえか」と自分で自分にツッコミをいれざるをえない状況なので先にことの経緯を。まあ、大したことじゃないが。

 

今日は2度目の「傷物語 冷血篇」を見に行こうとしていた。来場者特典の短編小説『混物語 みここコミュニティ』が欲しかったからである。物語シリーズの主人公である阿良々木暦とメインヒロインの戦場ヶ原ひたぎ、阿良々木くんの幼馴染の老倉育が合コンに行くというお話らしかったので是が非でも読みたかったのだ。なんかもう想像もつかない展開になるのではないだろうかと胸躍らせていたのである。しかし、よくよく考えたらこの来場者特典は『結物語』発売後に配布されている。一応、(少なくとも西尾維新作品中)物語シリーズではそういう時系列ネタのギャグもあったりするので、ギャグの味を存分に楽しむために販売順というか人の目に触れた順に沿うべきだと考えた次第である。

 

ちなみに今日は映画を見ずに帰った。何でも特典が足りなくなってしまったから一時入場を待って欲しいとのことだった。仕方がないから待とうと思い、5分から10分待った。なかなか館内アナウンスが流れなかったので、一旦トイレに行った。その後もアナウンスは流れなかった。上映開始時間を50分くらい過ぎていたのでさすがにどうなってるのかと思いスタッフに聞いたら「もう開場しています」と言われてしまった。トイレに行った数分の間にアナウンスされてしまったらしい。まあ小説だけもらって途中から見るのもありかなと思っていたのだが、別の上映日のチケットと引き換えてくれた。とても親切なスタッフ陣だった。ご迷惑をかけて申し訳ありませんでしたと言われたので、僕も同じ言葉を返した。こちらこそトイレなんか行ってすいませんでしたと思った。

 

さらにちなみに、映画を見なかったかわりに何かしたいとおかしなこと(先週の土曜日以来、買い出しを除けば久しぶりの外出だったのでかなり人に疲れたので帰ろうとも思っていたのに)を考えてしまったのでcoenでジャケットを買った。60%引きだったし、しっかりした作りだったので長持ちしそうだったからだ。買った後すぐに「誰に見せるわけでもないのに」と後悔したが、ジャケット自体は気に入っている。その後ダーツをしに行った。6時間ほど投げて、自分の伸びしろが見えないことと通信対戦時の緊張の具合から見て自分にはやはりダーツは向いていないのではないかと思った。だが初めて1か月だし、やっぱり狙ったところに入ると嬉しいし、また行こうと思う。

 

ようやく本題に入る。『結物語』だ。作品としては社会人一年目の阿良々木くんが久しく会っていなかった旧友との再会をきっかけに高校時代を振り返るものになっている。とりあえず、歳を重ねた阿良々木くんはやんちゃなツッコミをあまりしなくなってしまったので個人的には悲しい。まあ、社会人にもなればおふざけばかりしてはいられないのだろうから、ギャグのキレに関しては仕方がない。一方で、西尾維新の言葉遊びの技術は「ほほお~」となるシーンが多かったので安心した。いやいや、とはいえ阿良々木くんが語り部としての作品が久しぶりだったのでギャグパートをギャクの新しさでついつい見てしまっていたけれど、彼と彼の妹である阿良々木月火ちゃんの掛け合いも健在だったのだから文句は言うまい。満足である。

 

そんな彼の職場には彼と同じような境遇のものたちが集まっていたのだが、どこか自分を特別視してしまっていた自分を恥ずかしく思ったり、同時に似たような経験を持った同僚との仕事を楽しく感じていたりしていた彼の

 

「たとえ不死身同士だったとしても、似たような過去を背負っていても、僕たちがそれを共有することは決してできないのだから。

人間と人間がそうであるように。」(P.76上段3-6行目)

 

というモノローグは心にどっしり響いた。なんだか、こんな場所で書くことではないのだけれど、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』を思い出した。彼の言う「分有partagé」と阿良々木くんが語った「共有」は全く別の文脈で言われているものというわけでも、かといって似たような意味で使われているわけでもないのだけれど、だからこれは感想とか考察でもないただの、それこそモノローグでしかないのだけれど、阿良々木くんの言うようにある人間が他の人間と共有しているものなどないと思う。人間であることを共有していると言っても人間をどう理解しているかは人それぞれだし、最小公倍数的な共通理解の中にあるのはただの「人間」という言葉の言語的機能、言い換えれば概念でしかない。定義でしかない。ただその定義に従うことでしか人間は分かり合えないのである。「共有する」という行為を為そうとする際に必要な要件でしかないそれらを「共有している」ことで満足な人はそれでいいけれど、所詮形式的なものでしかない。ナンシーの文脈に引き寄せて言い変えることは、この二つの言葉が使われた「文脈(意味)上」不可能なので、まあほとんどこじつけというか、何か面白い視点が開けた気がしたから書いただけである。

 

こんな面倒くさい気付きは置いておいて、やはりファーストシーズン・セカンドシーズン・ファイナルシーズンにおいて登場していたキャラクターの約5年後を見れたのはファンとして嬉しいことである。特に、僕は忍野扇老倉育が好きだったので、扇ちゃんの「私は何も知りませんよ、あなたが知っているんです」のあのセリフが聞けた(読めた)ときには涙が出るほど嬉しかった。阿良々木くんの自罰的な感情が生み出した怪異であり、言うなれば彼の持つ劣等感が引き起こした怪異である彼女を悪く言う人も多いけれど、やはり『終物語(下)』終盤での阿良々木くんと扇ちゃんの掛け合いを読んだときは僕まで救われた気持ちになったし、誰よりも阿良々木くんを愛しているキャラクターの一人であることは間違いないので、ここは個人の趣味なのだろう。あと老倉育の「30歳過ぎてもお互い独身だったら絞め殺し合いましょう」もゾクッと来た。趣味は人それぞれである。

 

楽しい話は続かない。今回の作品は考えさせられることが多かった。初めて『化物語』を読んだとき僕は大学生だったし、今作でも阿良々木くんは23歳なので僕より年下のままなのだが、どうしても自分と比較してしまうのだ。架空の人物と自分を比較してどうすると自分でも思うのだが、なんというか、劣等感を抱きやすいところとか、ちょっと変人なところとか、すごく親近感が湧いてしまう。誰だって多かれ少なかれそうなのだろうと思うから、僕個人が物凄く親近感を覚えるというわけでもないのだけれど、初めて物語シリーズを読んだときからそのように思っていた。ただ、阿良々木くんは劣等感抱えててもちょっと頭おかしくても、それでもかっこいいところがあって、そんな人になりたいなとかずっと思っていて、だから物語シリーズが大好きなのだが、「みとめウルフ」で、歳を重ねた阿良々木くんが羽川とのわだかまりというか彼が抱えていたもやもやを乗り越えている(少なくともそのように見える)ところとかを見ると、僕は何にも成長していないと痛感してしまう。

 

未だに以前付き合っていた人たちとのことを考えて、あのときこうしていればよかったなどと後悔しているし、後悔するのをやめてもいいものなのかも分からない。そうやって悩んでいないと、自分で自分をけなし続け、批判し続けないといけない気がしてしまう。僕は甘ったれな人間だから、どうしても被害者面をしてしまいそうで怖いし、そんな自分が嫌だ。こうしてぐるぐる悩み続けてしまう。先のことはあんまり考えたくないけど、たまにはそうしたこともしっかり考えて、自分の幸せを考えていきたいと思うときもある。だがそうであっても、過去の失敗はやっぱりなくならないし頭の中から消えてはくれない。昔の出来事に依存してしまっている自分を、阿良々木くんみたいに(というのは彼に失礼だが)乗り越えていきたいけれど、その方法が分からない。乗り越えるための「なにか」もない。今の自分に自信を持てるようなものが僕にはない。語学力もない。哲学的なセンスも知識もない。社交性も、忍耐力もない。だから今もこうして休学という体を装って逃げ回っているのだ。そして、それを良しと開き直ることすらできない。感情が持続しない。

 

自分で自分に罪を擦り付けて、自分で自分を許そうとしない。自作自演もいいところである。結局は自己憐憫でしかなく、自虐趣味でしかないのだろうと思う。そう思っていることも含めて、自己憐憫や自虐趣味に含まれているのだろうからたちが悪い。

 

作品の終盤で今作の趣旨(阿良々木くんが昔のことを振り返る)を振り返ったシーンを読んで思い起こすと、僕は帰省して高校時代の友人と再会してもとりわけ「昔は楽しかった」みたいな話をするわけでも思うわけでもないけれど、それでも例にもれず阿良々木くんのように僕も友人たちを含んだ周囲の人間と自分を比べて、勝手に劣等感を抱いてしまう。そんなことも彼はうまくまとめていて、それがいいことなのかどうかは当人以外には分からない(変な言い方になるが、作者である西尾維新ですら分からないし、分かったつもりになってはいけないと思うのだ)が、僕はただひたすらに羨ましかった。

 

こんな風に自分に引き付けて考えなければ『結物語』はエンターテイメント小説として申し分ない作品であることは言うまでもないが、僕みたいな人間はどうしてもそれをしてしまう。難儀な人間だなあと自分でも思うし、気色悪い人間だなあとも思う。ようするに通常運転である。

 

そう言えば名前だけ登場したキャラクターが数名いたが、次作以降のモンスターシーズンで活躍するのだろうか。というか、128頁上段2行目のダッシュ記号後の「すわ」はなんだったのだろうか。いつも通りに、次作が早くも楽しみである。

浅くて狭い読書遍歴、浅ましくて狭い僕の心

越谷オサムの『陽だまりの彼女』を読み返してみた。実際には去年の夏あたりに「昔読んで気に入っていた本を数冊読み返してみよう」と思い立ってから、長いウォームアップを挟んでからの再読了なのだが。その他の「数冊」は梨木香歩の『西の魔女が死んだ』、そして西尾維新の『少女不十分』である。何だか僕の浅い読書歴を曝け出す形になってしまったが、それはまあ仕方ない。元々読書は好きでも自分からなかなか本を開かない人間なのだ。

 

小学生の頃は「ハリー・ポッター」の世界にのめり込み、中学生の頃は江國香織を読み漁っていた。前者については当時の多くのファンタジー小説好きの流れの中にいることができたのでさして恥じるものではなかったし、後者に関しても好きで読んでいたからこれも別に恥じなくてはいけないものではない。ただ中学生で江國香織を好んで読む人はあまりいなかった。そして僕自身今ではほとんど中身を覚えていない。タイトルすらおぼろげである。11歳になったら自分もホグワーツに行けるのではないかと妄想が膨らんだ小学生時代は幸せだった。「中学生だけど大人な小説読んでるんだぜ」という雰囲気を持っているつもりになれていた中学生時代もまあ、幸せだったと思う。振り返ってみればの話だが。

 

それ以降、僕はあまり読書というものを積極的にしなくなった。高校生の頃は読書している暇があるならゲームをしていたかったし、そうでなくても部活での人間関係のことで頭がいっぱいでそんなことには手が回らなかったからだ。部活をやめてからは友人とカラオケ三昧で遊びまくっていたので、より読書から離れていった。

 

大学生になって、初めてライトノベルを読んだ気がする。いや、中学の頃に友人にファイナルファンタジー11のノベライズを借りて読んだかもしれない。ともかく、今も記憶にしっかり残っている初めてのライトノベル西尾維新の『化物語』だった。僕の読書歴は一部を除いて流行に流されているようだった。物語シリーズに触れたのはアニメがきっかけだった。アニメ「化物語」が放送されていたのは2009年だったと思う。当時深夜アニメを好んで見ていたわけではなかった僕が、撮り溜めていたアニメを消化していた妹に付き合ってなんとなく見ていた数作品の中に、それがあった。「まよいマイマイ」で主人公の阿良々木暦に惹かれた。それからは妹と一緒に物語シリーズのアニメを見るようになり、原作であるライトノベルを買い集めることとなったわけである。『囮物語』までを破格の3600円で購入できたのを今でも覚えている。

 

自分の読書遍歴がいかに狭くて浅いのかを振り返ったところで、『陽だまりの彼女』について。感想や考察といったことはあまり好きではないのでしないが、一言残しておきたい。

 

なんというか、初めて読んだあのときのように心の底から楽しめなかったのが残念だった。浩介と真緒のようにイチャイチャしたいとか、真緒かわいいとか、彼らの周りにはいい人ばかりでいいなあとか、そういうことは思うことには思うのだが、自分がこんなことを思っていいのかと考えてしまう。遠慮のようなものが頭をよぎってしまう。作品の世界にのめり込み、最後まで読んだときの喪失感がどこかあっさりとしたものになってしまったような気がする。自分には不釣り合いな幸福を目の当たりにしてどうしたらいいのかわからなくなってしまった、と言うのが読了後の感想として最も正しい表現なのかもしれない。作品自体についての感想ではなくなっているけれど。多幸症の逆みたいな状態に、僕はなっているのだと思う。仕方のないことだとはわかっている。人生楽しめていない人間は人生楽しめている作品を読んだってこういうことになるのだ。昔は楽しめていたのかもしれないから、お気に入りとして本棚に残しておいたこの作品も、いつかは僕の手元から去るのだろうか。まあ、僕の個人的な感情を抜きにして、「恋愛ものかと思いきやミステリー感やファンタジー感もあり、しかもそれらが(大きな)違和感なく同居しているのを見ると、やっぱり小説家ってすげえな」という小並感満載の感想も残しておきたい。

 

これで一応読み返しておこうと思った作品は読み返し終わったので、物語シリーズ最新作『結物語』、OVA化した同作者デビュー作『クビキリサイクル 戯言使いと青色サヴァン』、友人のおすすめであるフェルナンド・ベソアによる詩集『不断の書・断章』、そして復学を視野に入れ(単に中途半端になっているだけでもある)、永井均ヴィトゲンシュタイン入門』を読んでいこうと思う。多分これから長いクールダウンの時期と長い長いウォームアップの時期が来るので、読み終わるのは当分先のことになるだろうが。

 

 余談と言うか今の心境。1月の単発派遣の求人数の少なさに胃が締め付けられていたが、2月も同じことのようだった。現在登録している派遣会社のほかに2、3社新しく登録しようと思っているのだが、どこの評価を見てもやはり悪評はある。というか、ただの悪口みたいな評価を書きこまれている会社なんてざらである。そんなことがあってしまったからにはもう僕は指を動かすにも胃がきりきり状態で派遣会社について考えることを一旦置いておこうと思うのだが、とはいえ頭からそう簡単には離れない。少しでも評判のいい会社に登録したい、そして求人数の少ない会社に登録したって意味がない。比較的評判のいい5社をとりあえず選んでおいたが、何を基準に絞り込みをかければいいのかすらわからない状態である。いっそのこと5社ともに登録してしまおうか。

 

とにかく今はこの胃痛から脱したい。しかし、諸事情ゆえに、ただ座っているだけというのも難しいくらいの頭痛のときしか薬は使わないようにしているので胃薬は飲めない。まともな表情すら保っていられないので何とかこの痛みを軽減したいと思って(どうせストレスが原因だろうから)、ことの経緯を文章に起こしているのだが全くもって落ち着く気配がない。いやこんな状況になったのは自分のせいなので胃が痛いだのと被害者ぶるのはよくないのは分かっているのだが、いかんせん胃が痛い。

 

一言でこの状況を的確に表すとすると、自業自得である。

 

追記。件の5社は単発派遣業務の紹介はしていなかった。振り出しに戻る(しかし胃痛は悪化する一方である)。

長めの正月ボケ、あるいは…

正月ボケかもしれない。社会人になんてなれっこないと思い大学院に進学した上に、興味が持てなくなったなんて理由で休学しているゴミ人間を正月ボケなんてかわいい言葉で形容することが許されるのであれば、の話だが。

 

後半に行くにつれて自分でも何について考えているのか、誰に対して釈明しているのか、自分の本心は何なのか分からなくなるのが常だし、日に日に「ものを考える」ということができなくなってきているが、記事のはじめくらいはきちんと具体的なテーマのある話をしようと思う。

 

今回はダーツのお話。10月に大学の友人が訪ねてきてくれてから、もう完璧にダーツにハマってしまった。寝ても覚めてもダーツのことばかり考えてしまうというほどではないのだが、起きている間の半分くらいはダーツのことを考えていると思う。よく行く比較的安い料金設定のダーツもできるインターネットカフェでひたすら投げ込んでいるとき以外は呆けてしまっているくらいだ。この状態が続くのであれば、もはやこれは正月ボケではなくダーツシックと言えるかもしれない。

 

とはいえ、僕は別にダーツが上手なわけではない。というかスポーツ全般に関して若干の引け目というか、抵抗感がある。見ている分にはいいのだが、やるとなると話が違う。頭の中で思い浮かべている動きを体が再現できないとでも言えばいいのだろうか。小学校4年生から高校2年生の夏くらいまで、僕はサッカー部に所属していた。特別サッカーが好きだったというわけではなく、ただ単純に誘われたからやってみたという理由だった。それから、人間関係に疲れ切って退部するまで放課後の時間をサッカーに費やしていたというわけである。ようするに惰性だ。部活をやめてからはまるで今までの生活が嘘のように人生が楽しいと思えるようになったり、部活をやめてから本格的にサッカーに興味を持てるようになったり、といった横道に逸れて脱線したいのだが、そうするとおそらくダーツとは関係ない話になってしまいかねないのでやめておこう。

 

ともかく、スポーツに自信が持てない僕であっても(とは言えサッカーしかやったことがないのだし、個人競技には一切関わりがなかったのだから、いささか語弊があるかもしれないが)、いや、そういう人間だったからこそダーツにハマったのかもしれない。

 

一人で投げている間、「今のフォームは少し思い描いていたのとズレていたなあ」とか、「今の一投は指が引っ掛かってしまったなあ」など、いろいろ考え試行錯誤しているので、「大学院復学してもきっともう哲学に興味なんて持てないし、周りの人とも仲良くできないだろうし、予習復習だって気乗りしなくてサボっちゃうだろうし、論文なんか書きたくない」とか、「かと言って大学院を退学しても社会人になる自信なんかないし、もし社会人になっても周りに迷惑かけたりあるいはこっちが頭おかしくなっちゃうかもしれないしどうしたらいいんだろう」など考えないで済むので非常に気が楽である。休学前、友人に現状を相談したところひとまず哲学から離れて遊びまくってみたらいいのではないかと言われたのを思い出した。

 

一方で、現実的な話になるが、1月は派遣のお仕事の求人が驚くほど少なかった。おそらく月末まで全く働くことができずに終わると思う。2月以降の求人数にもよるが、もしこのまま件数が増えないのであれば新しく別の派遣会社に登録する必要があるかもしれない。そして、ダーツには食費を切り詰めたとしても多くて週に2回行ければいい程度になってしまうだろう。今までもそうだったが、せっかくダーツという趣味を見つけられたけれど、哲学から離れて遊びまくるというのは案外僕にとっては難しいことのようだ。

 

「プロダーツプレイヤーにでもなって足りない分の生活費はダーツバーなどのダーツを投げれるお店で働いて稼げたら幸せだなあ、ネットサーフィン中に「ニート大募集!」や「既卒でもOK!」などの広告を目にするたびに胃が痛くなる必要もないし」

 

などと浮かれている場合ではないのだ。プロのダーツプレイヤーであってもスポンサーがつかなければダーツ一本で生きていくことはできないし、そもそも大きな大会で名前を残さなければスポンサーはつかない。相当に険しい道なのだ。ちなみにある程度うまくなればプロのライセンス自体は取得できる。多分プロより上手いアマチュアはごまんといるのではないだろうか。

 

話は変わるが、5日後の1月28日に、僕が大学院入試で初めて仙台を訪れてからちょうど一年経つ。あのときはこんなことになるとはかけらも思わなかった。それでも普通の社会人として生きるくらいなら死んだ方がマシだという思いは変わらない。というか普通の社会人として生きていくことになったら今の僕はいなくなってしまうだろう。僕らしい僕でなくなって家族への恩を返すことを優先することは、おそらく美談にもならない当たり前のことである。多くの人はそう考えるのではないか。当たり前のことだから我慢できる人は、そう考えるのだろう。いや、実際のところ僕だって親にこれ以上迷惑をかけたくない気持ちくらい持ち合わせている。

 

まあ、結局僕は下劣なエゴイストに過ぎず自分のことしか考えていないのだろう。そうではないのだと主張する手立てはなく、そうではないのだと証明する頭を持ち合わせてもいない。証明したところで僕の悪癖が許されるわけでもないし、明るい展望を抱けるわけでもない。周囲に対する劣等感は依然として僕の心にへばりついているし、自分をごまかして生きているように思える社会人たちを心のどこかで可哀想などと思っている頭のおかしさも健在である。僕のことを理解してくれる人は少数だがいる。しかし、彼らだって僕がいつまでもこんな腑抜けのままであったり煮え切らないままだったら愛想を尽かしてしまうだろう。だったら、まっとうに働くなんて万人受けする万人向けの選択肢に煩わされずに、僕みたいな社会不適合な人間でも何とか最低限の周りへの迷惑で最大限の幸福を手にする生き方を考えるべきではないだろうか。いや、開き直ったところで、この重苦しい感情は消えてはくれないのだけれど。

 

それに、開き直って前向きに考えようとしても、そうした生き方は必然的に少数派のものになるだろうし、それゆえに参考になるものも少ない。何が正しいのかも分からないから、自分の感覚に身を委ねる機会も増えるだろう。そんな大胆さは僕にはないけど、とはいえ日本の経済社会に消費者という立場でなく関わっていくことは僕のような不器用な人間には恐ろしく難しい。邪魔にならないところでひっそりと生きて、ひっそりと消えてしまいたい。生き方よりも死に方ばかり考えてしまうような、逃げることばかり考えている人間はどこでどうしていればいいのだろうか。

 

これからのことを考えると「死ね、あるいは働け」という言葉が頭を占拠する。悪いのは僕なのか、あるいは既存の社会なのかなどと考えたところで無駄である。部分的な欠陥であっても構造的な欠陥であっても、罪悪感からは逃げられない。

一人愛憎劇

自分可愛さに呆れている。

 

人間にとって罪や罪悪感というものは、特に後者の言葉のことをよく考えてみれば分かるだろうが、それらは感じるものにとってのみ存在するものであり、例えば人を殺したとしてもそれを罪だと思わない人間にとっては、あるいは信号無視をしても罪悪感を感じない人間にとっては、あってないようなものである。というか、ないのだ。だがそうでない場合もある。つまり、罪悪感や罪の意識を感じてはいるけれど、それらから解放される場合である。人間は案外忘れっぽい。忘れっぽくできている。過去の失敗や後悔を引き摺ったままでは今現在の、目先にある物事に集中できないからという理由からだろう。単純なのだ。感じなかったり、忘れたりするのだ。自分が何をしてきたのかを、自分が何をしでかしてきたのかを、簡単に忘れる。僕もその一人だった。

 

今日は昼過ぎに起きた。もういちいち枕詞のように書かなくてはいけないのが面倒なのだが、やはり昨晩眠れなかったから起きれなかったのである。眠れたのは朝の7時過ぎだったと思う。体内時計と太陽の傾きの間にずれがあると、なかなか行動力というものが湧いてこない。今日は食材の買い出しに行こうと思っていたのだが、その前にマイダーツを買いに行った。ハウスダーツは(それこそハウスダーツなのだから)店によって重さも長さも違う。となると毎回その店のものに慣れなくてはならないから時間がもったいないし、最初の2ゲームくらいはストレスフルなものになってしまう。

 

マイダーツを買うと言っても、貧乏人であることは重々自覚しているので最小限のコストで最大限の満足を得られるように事前にパーツごとの役割などを調べてから買いに行った。夕方くらいのことだったと思う。結果としては、ダーツハイブ仙台駅前店の僕より若そうな店員さんとうまく話せなくてとりあえず一番安いものを買うことになった。そのままようやく手に入れた自分だけのダーツの感覚をものにするために、何度か行ったことのあるダーツもできるインターネットカフェに行った。3時間ほど投げたところで早々に帰った。それが21時過ぎのことだ。人生初のハットトリックも出せたし、カウントアップのハイスコアも更新できたのでまずまずの収穫といったところだろう。良い買い物だったと思う。

 

食材の買い出しを後回しにしてしまったから、今からSEIYUで買うとしても家で調理するのは面倒なので適当に選んだらーめん屋で食事を済ませて、いつも行っている喫茶店(というかチェーンのカフェ)で一服してから家に向かった。途中で買い出しを済ませる算段だった。喫茶店でたばこを吸っている最中、ふと以前付き合っていた人たちにLINEでブロックされているのではないかと気になってしまったので確認することにした。僕はそういうSNSにおける小技みたいなものには疎いので、スマートフォンでその方法を調べた。女々しい行為だった。確認した結果、一人を除いて全員からブロックされていたことがわかった。「まあそういうもんなんだろうな」などとはじめは思っていたのだが、よく考えたら自分から別れを告げた相手だけがブロックしていたので、なんというか筋違いな被害妄想を逞しくしていた僕は途端に自分が最低な人間だということを思い知らされることになった。それから今までずっとそのことについて考えている。

 

全部自分の都合だった。別れた原因が相手にあるわけではなかった。全部僕の都合である。僕のわがままである。冷静に考えて、そう思った。同時にそういうだめな自分に酔いたい僕というものに目を向けなくてはならないことに気付いた。心の底から自分が嫌になっているときに、僕はそれでもなお自分を何とか愛そうとしていた。自分に酔うという形で。なんというか気持ち悪かった。いや、「なんというか」なんて言葉で濁すまでもなく気持ち悪い。素直に気持ち悪いのだ。過去の失敗とか、それについての後悔とか、そういうものをひっくるめて今の自分があることは確かなのだが、それに対する償いというか、相手に許してもらう許してもらわないの問題ではないのだろうが、それでも僕は何もしていなさすぎた。反省はしていても、反省を生かしていない。同じことを繰り返しているばかりだった。そんな自分にさえ、僕は愛情を注ごうとしている。そんな生き汚い自分が、ひどく惨めでみっともなくて、気色悪かった。

 

だいたい、こんなものを書いている時点でそうなのだ。文章にすることによって何とか自分を美化しようとしている。自分のことを精一杯悪く書こうとしている反面、落としどころを頭の片隅で探している。「これが自分なんだからしょうがない」とか、そんな無責任なことを言おうとしているわけではないけれど、「自分が嫌い」と言っているだけでは責任逃れと何も変わらないだろう。

 

「僕だって好きでこんな人間に生まれたんじゃない」

「僕だって好きで生き続けているんじゃあない」

 

そんなことを言おうとしているのだ。自分を傷つけることで自分を慰めようとしているだけだった。優しく傷跡をなぞり、同じように傷をなめ合ってくれる誰かを結局探している自分がいたりもする。生き汚いどころか欲にまみれてどろどろになっているのが、今の僕だった。今の僕であり、過去の僕なのだろうけれど。

 

そんなことを思っている僕は、もう他人のことは忘れて自分のことだけを考えている。優しくない。正しくない。美しくない。偏屈で嘘つきで、醜い。生きていても仕方ないが、死んでも誰のためにもなれない。生きていても何もできないのに、どうして生きているのだろうかと考えてしまう。

 

早く忘れてしまいたい。何も考えずに眠ってしまいたいが、それも今日はまだ無理のようである。

 

 

そう言えば、帰省を終えてこちらに戻ってきてから初めての投稿になる。1月6日の早朝にこちらに着いた。電車もバスもまだ動いていなかったので例のインターネットカフェに行った。3時間ほどで出る予定だったのだが、傷物語の公開日だったのでうまく上映時間前に終わるように6時間投げた。長時間高速バスに乗っていた体で6時間投げていたのでへとへとだったが、幸い眠りに落ちることなく映画を見終えることができた。傷物語物語シリーズの中でもとりわけお気に入りの作品の一つだった。

 

作品ごとに印象深い台詞があり、主人公と共に毎回僕のだめさに向き合わなくてはならないことになる物語シリーズだが、何だか今の僕の心境、そして先ほどまで書いていた内容は傷物語とよく馴染んでいる。だめ人間は傷物語を読んで(あるいは見て)思う存分感傷に浸ればいいと思う。何も解決しないし、何も改善されはしないだろうが。それにしても、阿良々木君は何をどうすればよかっただろう。何が正しかったのだろう。綺麗事を言うのは簡単だが、正しいことをすることは本当に難しい。

 

今日はひねくれものにはぴったりの腕時計が届く。多分いつも通りなら正午前に届くので、今日はそれまで寝ずに起きていようと思う。

 

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哲学と僕

スマートフォン向け基本無料ソーシャルゲームで重課金し案の定大爆死したことで大晦日と元旦は心がふらふらになっていたけれど、さすがにメンタルバランスが整ってきた。別のゲームでも同じくらい課金してしまった前科持ちのくせにふてぶてしいと感じるが、今は前向きに捉えないとまずい気がしているので気にしないことにする。とにかく働こうという決意が固まったので、ポジティブに考えてみれば雨降って地固まるといった具合である。というか、「課金しすぎてメンタルバランス崩しました。お薬ください」状態になるのは流石にどうかと思う。

 

そんなわけで、普段通りの憂鬱具合に戻ってきた僕は現在帰省中である。厳密には高速バスで池袋に向かっている。こういう移動はなんというか、僅かではあるが旅情のようなものを感じられていい。地下鉄や市バスに乗っていると息がつまる。

 

旅先までの移動中や旅先での落ち着いた時間で「小説でも読もうかな」と思う人は少なからずいると思う。僕はその類の人間である。小説とは言わず、久しぶりに哲学書を読もうという気にもなるものだ。とはいえ、文字を打つならまだしも文字を追うとなると乗り物酔いが厄介である。読書中に乗り物酔いにでもなったら、せっかく長距離移動の雰囲気を味わおうとしていたのに気分が台無しになってしまうだろう。文脈から判断すればもはや言う必要はないかもしれないが、僕は今、現在進行系で気分が悪い。高速バスに乗る前にファミリーレストランで2、3時間ほど読書しておいてよかった。何事も保険はかけておくものである。

 

かといってやることがなくて困っていたので記事を更新しておこうと思った次第である。帰省ともなれば久しぶりに人と会う約束が増えるので、スケジュールの確認でもしておこう。

 

池袋についたら人と会う約束があるのだが、早朝6時半に呼び出すわけにもいかないのでどこかで時間を潰すことになる。留学から帰ってきて大学を卒業するまでは西武百貨店で働いていたので、池袋は少しだけ馴染みがあるのだが、仙台にはあまりないはなまるうどん日高屋が恋しい(後者に関しては関東以外に店舗展開していなかった気がする)。まあ時間を潰すのであればコメダ珈琲に行くことになるとは思うが。帰省中1件目の予定は特に何をするか決めていないので、多分気分次第で解散する時間が変わると思う。

 

次いで2件目の予定は地元の友達とダーツに行くというものだ。今回の帰省はこのためにあると言ってもいい。前回のダーツではあまり上達を感じなかったけれど、気心知れた友人と投げれるというだけで楽しみだ。

 

この予定が終わって初めて実家に向かう。正直気乗りしない。罪悪感を肌で感じてしまうことは目に見えている。僕の両親は優しい。祖父母もとても優しい。というか、僕に甘い気がする。以前は彼らの好意に対して反応に困る僕ではなかったのだが、大学院進学以降はまるっきり逆になってしまった。夏に帰省したときは両親と目を合わせることすらできなかったくらいである。気が重い。普段以上の憂鬱具合になる覚悟をしておかねばならない。

 

翌日は午後から大学の友達とダーツに行く。この友人は10月に仙台にまで来てくれて、そして一緒にダーツをしに行ってくれたので、こちらもとても楽しみにしている。しかし僕と彼との家の距離の間を取るため、川崎でやる予定なのだ。川崎は人が多い。それだけで気が滅入る。

 

ダーツを終えた後はもう一人の大学時代の友人と合流して夜ご飯を食べる予定である。よく僕の悩みや愚痴を聞いてくれた子なので、もしかしたら今回もぽろぽろ愚痴をこぼしてしまうかもしれない。久しぶりの再会になるので、できればそれは避けたいのだが。

 

また、今回の帰省は3日間という短いものにした。現在僕の実家には僕のものがほとんどない。いや、まったくないと言っていいかもしれない。引っ越しの際に自分のものは全て持って行くくらいの勢いで荷物をまとめたのだ。というのも、僕も妹も一人部屋がなかったから、せめて僕がいないときくらいは妹に一人部屋気分を味わって欲しいからである(といっても父の洋服箪笥が僕と妹が使っていた部屋にあるので、完璧な一人部屋にはなっていない)。

 

とまあ、そういうわけなので、僕の実家には僕の布団がない。安心できるスペースがないのである。夏に帰省したときは5日間がとても長く感じたほどである。その反省を踏まえての3日間である。ただ、そのせいで人と会う約束が詰まってしまったので、僕としてはハードスケジュールになっている。ハードスケジュールというか、ダブルブッキングまがいになってしまっているので、さっき書いた大学時代の友人2人は多分在学中大した面識がない。まあ、2人とも僕のような人見知りではないのでなんとかなるとは思う。頑張ってください。

 

帰省最終日は昼にまた別の大学時代の友人と会う。一緒にたばこを吸える数少ない友人のうちの一人なので、これまた楽しみだ。この予定が終わったらなんというか、家族サービスの時間だ。親と妹、そして祖父母との夕食である。正直何を話したらいいかわからないし、どんな顔をしていればいいのかもわからない。なるべく黙ってやり過ごそうと思う。

 

以上が帰省中の予定なのだが、はっきり言って体力がもつ自信がない。友人たちには悪いが、そしてもちろん彼らと会うのは楽しみなのだが、早く予定を消化して仙台に帰りたい。

 

最初の方に書いたが、ファミリーレストラン永井均の『ヴィトゲンシュタイン入門』を読んでしまったので久しぶりに勉強欲というか知識欲が息を吹き返しているのだ。復学するまでにドイツ語をある程度できるようになっておきたい思い始めているくらいである。調子がいいというか気まぐれな性格だなあ、と感じざるを得ない。多分仙台に帰って机に向かってもドイツ語の参考書なんて開かないんだろうなあ。

 

ともあれ、いきなり読みかけのヴィトゲンシュタインの『哲学探求』を読みださなかったことは僕にしては上出来だった。向上心はないけれど急上昇思考の持ち主である僕は、なんというか功を焦って自滅するタイプなのだ。おそらく、この『哲学探求』を読んでいたら「復学なんて無理だ」と思っていたに違いない。まあ誤解を恐れずに言えば、「僕はまだ哲学が好きなんだなあ」と感じることができてよかった。好きなものを「好きだった」とか言わなくてはならなくなってしまうことや、まして嫌いになってしまうのは辛い。

 

いい加減乗り物酔いで気持ち悪くなってきたので、ここで指を止めようと思う。

今年最後の大失敗と今年最後の偏屈

自分の自制心のなさを後悔するときほど惨めな気持ちになることはないだろう。少なくとも、最も自らを惨めに思うときのうちの一つではあるということだけは確信を持って言える。

 

数時間前に戻れるのであれば戻りたい。昔から何度もこんな気持ちを味わってきたけれど、今回ばかりはその理由すら情けなくてより自分が惨めな、そして無思慮な人間であると感じている。

 

ソシャゲで課金とか…不定期での仕事になる日雇い労働者がやっていいことじゃねえよ…

 

言葉遣いが乱れたが、自分で自分に呆れてしまう額を使ってしまったがゆえの乱れである。金額をぼかす辺りも妙なプライドというか保身の気持ちが丸見えで情けない。いや、恥を上塗りすることは必ずしも美徳ではないのだが。

 

あーなんでほんとにあんなことにお金使っちゃったんだよ労働の辛さ身に染みてわかってんだろうが…

 

またも言葉に乱れが出たが、自らにかける言葉において遠慮など無用である。罵りたいだけ罵るべきなのだ。基本無料のゲームというものは、無料で遊べるがゆえの楽しみ方の限界が存在する。簡単に言えば、欲を出してはいけないのだ。そして続けて簡単に言えば、僕は欲を出してしまったのである。

 

来月13日に12月の最終週に働いた分の給料が入るが、その金額では到底カバーできない金額をたった1時間ほどで使ってしまった自分の愚かさを呪うしかない。たとえ望んだ結果が金銭によって達成できていたとしても自らを恥じるくらいの損失だった。

 

あの1時間に僅かながらの自制心が働いていれば。午前1時、僅かながらの謙虚さがあれば。

 

たらればを語っていても仕方ないけれど、立場を弁えず行ってしまった課金という重罪を犯したあと、すぐに胃痛に襲われた。いや、被害者面をしようというのではない。これはいわば報いである。被って当然の罰である。だから、この胃の締め付けられるような痛みを気にしてはいないのだ。ただ、この痛みで罪の重さを改めて思い知っているということを書きたかった。

 

語り口が大仰になってしまった。事実はただ「身の丈に合わない遊びをしたがゆえの損失をした」というだけなのだが。そしてその損失も働いてすぐに取り戻せるというわけでもないが、すぐでなければ十分に取り戻せる。しかし、親の負担を少しでも減らすため、そして自らの精神的な均衡を保つために始めたバイトだったが、今回ばかりは小遣い稼ぎだとか、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなったのである。

 

12月は日雇いバイト業界(そんな業界があるのかどうかはわからないし、そんな呼ばれ方をしているのかどうかもわからないが)にとっては繁忙期である。そして、1月の頭も同じく繁忙期である。逆に言えば、以降は相対的に求人数が一気に減少する。その影響かは知らないが、僕の登録している派遣会社が取ってきてくれた仕事はもうほとんど埋まってしまっているという事実が、余計に僕を焦らせている。それに、治験のバイトも募集が全くといっていいほどない。

 

大失態をしでかしてから5時間が経ったが、僕の神経は未だに興奮状態にあるようで、なかなか寝付けない。もう当分自分にできる仕事はないし、ならば心と体を休めておくべきであると、そう思うのだが、体が言うことを聞かないのである。

 

小心者で卑屈で卑怯な僕は、ついでに言えば甲斐性もなく自分に自信もない僕は「1月の二週目に12月に働いた分の給料が入るし、日雇いの仕事もキャンセルが出たときに入れさえすればすぐに挽回できるんだから、今日はもう気持ち切り替えて寝よう!」などとは到底思えない。一人暮らしを始めるにあたって必要最低限買わなくてはならないと思えたものたちも、もはや必要なかったのではないかと思えてくる。リボ払いにしなくてはやっていけなかったが、リボ払いの重みが今になってのしかかってきた。だからと言って、それら生活必需品はインターネットなどで売れるような類のものではないから、大事に使い続けるしかないのだが。

 

どれだけ親に迷惑をかければ気が済むのだろうか。子を産んだ以上親が取るべき責任の範疇を超えているではないか。

 

何に対してもよりよい行為、ベターな行為というのは考えればいくらでもあるのだが、現実問題として僕のような人間には達成不可能なものだって中にはある。というか、ときにそういった選択肢は目的をないがしろにした手段となってしまうことすらある。何が言いたいのかと言えば、まあこれはただの自己弁護で、自分可愛さの主張なのだろう。親に甘えて生きてきている、親に甘えて生き続けてしまった自分を正当化しようとしている。

 

どこまで惨めで未熟なのだ。24歳にもなって情けなくなった。

 

5時間の間うまくまとまらなくて吐き出せずにいた気持ちを一度吐き出すことができたので、とりあえず先のことを考えよう。働ける仕事があればすぐに応募する。それしかない。無駄な買い物や出費というのは、よくよく考えれば今まであまりというかほとんどしていないから、あとは食費を削るしかない。これで行こう。

 

話は変わるが、よく悩み相談などに対する答えで「あなたより不幸な人間も、努力して事態を改善して頑張って生きている。だからあなたも頑張ってください」のようなものがあるが、あれはいただけない。頑張ることができたらすでに頑張っているからだ。こうしたある意味不謹慎でさえある応答の根源は、何も日本の社会に特有のものではないので、何を批判すべきかと言われると答えに窮してしまう。

 

ただ、一つ言えるのはああいう返しができる人間は人生において何か成功と呼べるものを持っている人間ではないかと思う。あるいは、一般論によってその立場を保証されている人間ではないかと思う。僕にはそう思えてならない。僕の考えが偏屈なのも、そもそも僕の性格が偏屈なのも分かっているが、彼らは自分の成功の下に、その成功の反面である失敗の側の人間のことを思いやることはないのだ。

 

努力したから報われた。報われなかったのは努力が足りなかったからだ。そんな論調が許されているのは、僕のようなまっとうな人間とはあまり言えないものにとっては、たいそう居心地の悪い響きを孕んでいる。居心地が悪いのだ。いてはいけないところに紛れ込んでしまっている感じがするのだ。こんな出来の悪い、クラスに一人はいるみんなと仲良くなれない一人ぼっちの人間のような気持ちになる。これも偏見だろうが。

 

まともでいることは難しい。その難しさに向き合うことも難しい。劣等感に苛まれ、それでもバランスを保つために自分が特別だなどと誤魔化してしまったりする。こうした行為が間違っているとは思わないし、自然な行為だとすら思える。だけど、こんなことをしても、どうしてもまともに生きることができない人間は、まともに生きることができない人間でしかないのだ。最善策を取ったとしても、「まとも」と「偏屈」の間を超えることはできない。そのような越境は、誰が認めないのかは知らないが、少なくとも誰にも許されていないのだ。

 

僕のような人間は、僕なりの居心地の良さを見つけるしかない。そしてその居心地の良さのために犠牲になるのは、大抵の場合数少ない自分のまともさなのだ。周囲に馴染めない人間は別の円周を作り出すしかない。だから、頼むから、一思いに切り捨てて欲しい。まともになるよう唆さないで欲しい。

 

 

ここまで書いて、こんな記事が今年最後の記事になったらどうしようと不安になってきたので一度iPhoneを手放すことにしようと思う。何か書きたいことが見つかり、そしてそれを文字にする気力が出るよう祈るばかりである。